2020年9月22日火曜日

【総合まとめ】ノンデュアリティって何? 【アルティメット】

2020.11.28 (最終更新日)

目次

ノンデュアリティ総合まとめ

  1. 初級★:ノンデュアリティって何? A.『事実を指すこと』
  2. 初級★:ノンデュアリティのダイレクトパスとは? A.『最速最安全ルート』
  3. 初級★:意味付けが自然と外れている時がある
  4. 初級★:ノンデュアリティとは? A.『気づきが「気づき」に気づくこと』
  5. 中級★★:ノンデュアリティを分けて捉える
  6. 中級★★:ノンデュアリティデュアリティの違いは? A.『事実ベースと空想ベース』
  7. 中級★★:ノンデュアリティの効果効能
  8. 上級★★★:空とは? A.『空は無』
  9. 上級★★★:ノンデュアリティの概念化作業とは? A.『ワンクッション制』
  10. 上級★★★:デュアリティの本質とは? A.『無限の多様性』
  11. 上級★★★:ノンデュアリティのその後は? A.『コラボレーション』
  12. 次なる展開(予告)


ノンデュアリティにさらに深く気づくコラム

○ その他

  1. 過去のチャネリングのシェア
  2. 付録:意識の科学

ノンデュアリティって何? A.『事実を指すこと』

前置き

紫色ノンデュアリティの立場を表現するようにし、 緑色デュアリティの立場を表現している。青色ノンデュアリティの概念を表現している。

ノンデュアリティとは、事実を指すこと。

「私はいない」

何かに夢中になってて気がつくとお昼の時間だったりした時、思い返すと自分という何かはいなかった。

自分という存在を突き詰めていっても到達することはなく、自分の不在が在るだけ。

軸となる自分がそもそものところでいないので、自分というものがいるという前提によって成り立つ「相手」とか「他人」とかいうのも概念でしかなくなる。

実際にはだれかというものはいない、という発想。なぜかといえば、自分というなにか確固としたものが存在していないと突き止めたから。

「私」とはこういうものという自由な「定義」を持つ。実際の所、その定義自体もコロコロ変わる。例えば、3歳の時と、今の自分の価値観は異なる。思春期の頃や、定年退職後の自分のイメージも今と全く同じということではない。

私達が通常思い描いている確固とした「私」というものは存在しない。それぞれ定義があやふやだとする。共通項があるとすればそれは、「変わる」ということ。

なにかきっかけがあると簡単に変化するかのような曖昧模糊な定義自体、それを指針にするのは怪しい。「私はこうだから」といった自己イメージはそれ以外という自己イメージの生成の妨げにもなる。例えば、、、

遠くの方で虫の鳴き声が聞こえたり、雨が降ったり風が吹いたりすることは「現象」または「自然現象」だとわかっている。という事実があるのに対し、自分が暮らして生きていくということは「自然現象」だと捉えられずに、あれやこれやの意味をくっつけたりして「自分がしている」または「自分で動かせるもの」だと捉えている。

また、身近すぎるものも自分がしているとは思っていなくて、自然に起こっていると感じている。食べ物が消化吸収排泄されたり、血液やリンパ液が流れたり、傷口を修復したり、細菌感染を防いだり、髪の毛や爪が生え変わったり、そういったものを自分で止めれるとは感じない(生理現象だから)。

しかし、自分の感覚がある範囲だけは、何故か自分でしていると考えている。なぜかといえば、行こうと思えばコンビニにも行けるし、立とうと思えば立てるし、歩こうとすれば歩けるから。また、全部「自分がしている」と思い込んでいるので、「周りの人もその人がしている」と思い込んでいる。

そのポイントが実は事実とは異なるよ、という指摘がノンデュアリティでの捉え方。事実は全部が全部「自然現象」だから自然現象に向かって「意味づけ」を行い、「リアルなこと」として感じ取っている。

ノンデュアリティは、実践的な暮らしの知恵(または立場やグローバリズムのこと)なので、哲学ではないし心理学でもないし宗教でもない。

ノンデュアリティの入り口は2つ

ノンデュアリティの入り口には、1)「私はいない」と、2)「いまここ」という、主に2つの入口がある気がしている。あなたはどちら派?

1)「私はいない」というスローガンで表される「自己の不在性」という観点に焦点を当てるという入り方がごく普通の一般的な人のノンデュアリティの入り口な気がする。自分がいるという前提で今まで暮らしていたところからすると、寝耳に水のようなアイデアで実は自分がいないという「私はいない」というのは一体なんだろうと興味を持つのと、それは実際に経験できるということ(一瞥体験)がノンデュアリティが爆発的にヒットした理由だろうと感じる。

2) 「今ここ」というところにシンプルに余計なものを省いて見ていくと、言葉に出来ないただ「これ」があるだけという感覚に気がつくことができる。こちらは瞑想など悟り関連に興味がある人が通ってくる入口だと思う。

という一般人向けと、玄人向けのざっくり2パターンがある。

なので、ノンデュアリティの説明のされ方に二通りがあるということがわかっていないと、あの人が言うのと、この人が言うのとどうマッチさせたらいいのかわからなくなって悩んだりもする。

ノンデュアリティは基本は「空性」(くうせい)について話されていて、空性を人の暮らしに当てはめた時に、そもそも人というものはいないよ、という不在性をピンポイントで指しているという「ジャンル」だということ。不在性空性の内の一つ。

空性について語るティーチャーは、(不在性だけでなく)空の持ついろんな「無」という性質=空性について話していくんだけど、一般人向けにはまずは自分という何かは意味付けでしょ、と言うのに導こうとして、あなたが言うところの「自分」と言うものが本当にいるのか、いるのならどこに、いついるのかに注目させてくれている。

と、ここまでをまとめれば、、、「ノンデュアリティとは空性(くうせい)に関連している」ということです。すごくシンプルでしょ?

次に問いを全部で7つ。軽い気持ちで答えてみてね。(ここでつまづかないで5分考えてわから無ければパスしてもOK)

Q1. 自分はいる?
Q2. どこにいるの?
Q3. いついるの?いついないの?
Q4. いたりいなかったりするのはなんで?
Q5. 自分の定義はなに?
Q6. 他人の定義はなに?
Q7. 自然現象の定義はなに?


自分の「身体」を自分だと設定する場合、身体があるから自分がいると感じている。なので、普通は一瞥体験が起こる以前は身体=自分なので、物理的に捉えてノンデュアリティはわからない。なので、スピ系に全く興味のない一般人にとっては理解不能な話になる。

そして、すこしスピリチュアルに興味があると、死後の世界だとか、魂、エネルギーとかの、「目に見えない世界」に次第に興味を持つようになり、それも習熟しだすと、ようやく「非分離」というテーマが待ってましたと出てくる。

それまでは、自分というのが身体だと捉えていることから、身体があるから自分がいるんだと思っている。まずは、自分という定義の制限を取っ払って定義付けを拡張させないと、つまり自分=身体だとする信念体系に揺さぶりをかけなければならない。

そこであらゆる障害を一旦わきに寄せて、ダイレクトにズビシっと不在性を経験させることが「一瞥体験」という呼び方をされるようになったということ。その経験は魂が決めている。

なので、一般通路と玄人通路の2通路が用意されているという感じ。ディズニーのアトラクションみたいに、整理券通路と並ぶ通路の2通路が合って、魂が整理券を先に取っておいたからいきなりアトラクションに載せられて心の準備もないまま「あ~れ~」と驚いたというのが一瞥体験で、何時間待ちで並んでその間中熱心に勉学に励んでいざ自分の番になってアトラクションに乗るというのが並ぶ方の通路。こちらは全部自分のペースで行けて心の準備も済ませてあるので比較的ショックが少なくてまあまあ楽しめる。みたいなかんじ。

自分が身体だとまだ思い込んでいる間は身長制限が合ってそもそも列に並べないよ、みたいな。大きくなったらまた来てね。という感じ。

ノンデュアリティで誰もが通る道筋

ノンデュアリティはみんなが通るテンプレみたいな道筋がある。お決まりのお散歩コース。それはだいたいこんな感じ。

1) 初級1:出会い。「悟りの一瞥」というのは、単に分離の概念で生きている人が初めて非分離というものに触れてショートしたという感じ。思っていた構成が全く違ったという事実に愕然とするという様。ルールクラッシュ。既知の価値観が機能しないものだとわかってしまう。また、一瞥という洗礼を経ずに参加する場合も普通にあっていい。徐々に目覚めるので徐々派というらしい。ぼくも徐々派だった。

2) 初級2:新ルールにすぐには納得がいかず、分離の意識のままであれやこれやと思考し悩みぬくというのが、「一瞥後のダンス」と言われているもの。何度も何度も思考の上でどちらが正しいのか間違っているのかを吟味していく作業のこと。

3) 初級3:ダンスも終盤に差し掛かり、もう踊る気力も枯れ果てる頃、諦める気持ちが勝ってくる。これを「サレンダー」(手放す)と言う。分離なの?非分離なの?もうどっちでもいいから答えを教えてほしい、となる。

4) 中級1:知りたかった答えは非分離なので、非分離が答え。あとは納得するまで、非分離について学習し、学んでいく。ここを「深まり」と呼んでいる人も中にはいるかもしれない。期間が長いので。

5) 中級2:非分離が答えなのは納得済み、しかし、分離があり続けるのはなぜ?「パラドクスを解消しだす。」

6) 上級1:明らかなブレイクスルーが起こる。つまりカリキュラムの修了。「パラドクスが解ける。」非分離分離もどちらもそれぞれあってOKがちゃんと分かる。これからどう普通の現実を生きようか。結局わからない。なぜかといえば、非分離未知の領域だから。自分らしくあるだけ。あるがままあるだけ。なったようになるだけ。

7) 上級2:自分を輝かせたい。事実ベースでコラボレーションする。」自然にレギュレーションが合うからコラボしやすい。自分の能力を出し惜しみなく放出することを喜びと感じる。非分離がベースとなっている。


内容に個人差はあれど、これがおおまかな流れだとおもいます。

結局ノンデュアリティを学んで何がそんなにおいしいのか?というと、空想ベースから事実ベースに生き方をシフトさせることができる今簡単にアクセスできるもっとも簡単な方法だからです。

結局のところ、ノンデュアリティカリキュラムを1パッケージにまとめてあるので、箱から取り出してすぐそのまま使える。学習キットにしてあるというのが極みマル秘ポイントです。

特に、パソコン、ゲーム、プログラミング、に興味があって好きな方々にとってはものすごっく親しみやすく学べるような切り方にしてあります。ようはZ世代以降の人々に必須なカリキュラムですね。その世代にわかりやすくしてあると思います。ノンデュアリティは。

しかし、今はノンデュアリティ黎明期だと思っています。それはZ世代の親に当たる方がノンデュアリティを学んでいる時間だからだと思います。その親御さんたちは、Z世代特有の世界の見え方に関する同意がないかもしれませんので、その場合にはノンデュアリティを学ぶことで見えてくるかもしれませんね。


それから、ノンデュアリティを学ぶ時、知っておくと回避できる悩みがいくつもあって、それは以下のリンクで解説する。サラッと目を通しておくと、車輪を再発明しなくて済むので時短になる。悩んだときに見るでも可。

a) 感覚タイプと思考タイプでは納得の仕方が異なる
ノンデュアリティスピーカーさんのお話がなぜわかりにくいのか?長年の悩みだったけど完全に理解したった。それを説明する。

b) ノンデュアリティスピーカーに2種類いらっしゃる説明と第3案
ノンデュアリティスピーカーさんは2種類いて、それぞれの違いをわかるようにした。

d) 虚無を回避する方法と虚無の解決方法
知識として知っているだけでも大きく違うと思うので書いておく。

このa、b、c、3つの内容を自分の中でまとめれば、既存のノンデュアリティの説明のされ方が導く間違った迷路に入り込むのを防ぐことを目的にしている。一度目を通しといて欲しい。なぜならそれは既に発明されている車輪だから。

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~ ・ ○ おしらせ ○ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~

1mmでも良いと感じたなら、SNSなどで拡散して『ノンデュアリティ』を学ぶチャンスを自分の番で切らずに次の人の番に繋げてね。あなたのフォロワーの中に待ってる人がいるよ。

まだ今の自分にはわからないことでも、これまで向き合ってきた人たちにとっては待ち望んだ内容だから、その人たちのために拡散よろしくお願いします。その人がわかりやすく翻訳してあなたに教えてくれると思う。

~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~

ノンデュアリティのダイレクトパスとは? A.『最速最安全ルート』

一般的に言われている「ノンデュアリティ」はYouTubeに動画がたくさんあり、本もたくさんある。月千円のキンドル・アンリミテッドにもたくさんあり、お得。

YouTubeの場合には話をまとめてくれていなくて、15分以上の長い動画で質問に答えるみたいな、または、体験のシェアみたいなバラバラの生のままの情報を提供してくれているので、学ぶコストが高め。すぐに食べれる調理済みな情報元は少ない気がする、というか見つけられていない。しかし、無料で様々な切り口からシェアしてくれているのでとてもありがたい。

学習意欲が高い場合にはそのプロセス自体が楽しいかもしれないが、勉強はほどほどで良くて知りたいことをしれたらもう好きなことしたいよ、という方も当然多いと思う。なので学習コストを削減する方法を紹介する。

ノンデュアリティで最も早く理解が進む方法は「ダイレクトパス」だと思う。余計な一切合財をすべて外して、「これ」そのものに対してまっすぐ触れていく。邪魔な理解や邪魔な新しい概念といっためんどうなインストール作業を一切しなくて済むので、既存の価値観を少し誘導するだけで最速最安全で発見まで直通ルートで行けると思う。それでそれは可能だということ。

ノンデュアリティは既に攻略済みなので、最も良いルートが公開されていると捉えればOK。その名は「ダイレクトパス」

先入観で「居る」と思いこんでいた自分という存在が突き詰めていくとそれらは観念だったとわかると言う不在性を体感できることがダイレクトパスということ。

ダイレクトパスの一例 : 本 『バタ足ノンデュアリティ』。動画 ノンデュアリティかなもり幼稚園『聴くおさらい帳』

ノンデュアリティはもともとの素の現象分離が無いよということだけを言っているけど、それは体感する領域なので概念では理解ができないと言われている。「感動は概念ではない」というのと全く等しい。感動は自分で経験できるジャンルのもの。

縄跳びや自転車に乗るのと同じように体感覚で理解するジャンル。どうやって体感するのかは後ほど書く。
(→ ダイレクトパスの一例 : 意味付けが自然と外れている時があるを参照)

例え:いちごのダイレクトパスとは?

なにを言っているのかをもっとはっきりさせるために、いちごの例えを使う。

生まれてはじめていちごをたべる赤ちゃんは、ママが買ってきたいちごを食べる。そのときに初めて「いちご」というものが何なのか、産まれて初めて見る「赤い丸」を口に入れてから驚く。発見する。

私たちは普段、いちごを経験するとか、いちごを体感するとか、いちごをダイレクトパスするとか言わずに、普通にいちごを「食べる」と言う。スーパーでいちごを買ってきて口に入れると即、いちごの味がする。香りがする。それをいちごを食べると表現する。その後に、美味しいだとかあまいすっぱいという感情的な反射が来る。

それはいちごが物質で触れて見て嗅げるものだから、わかりやすいものだからそれで大丈夫だけど、無形のもの全般(非物質的だとか観念だとか言うジャンルのもの)は直接経験したときに「これがそれだよ」と言ってくれないととてもわかりにくいものとなっている。

いちごをダイレクトパスしない場合は、赤ちゃんにいちごの写真や絵を100回でも見せればいいけれど、それでいちご自体を経験させたことにはならない。そうではなくてダイレクトに経験させたい場合には、スーパーでいちごを買ってきてお皿に乗せて目の前に指し出せば、それを自ら興味を持ち、つかんで見て嗅いでなめてみて、口の中に入れて食べた途端にすでにそれはダイレクトにパス(経験を)している、ということ。その時初めていちごをダイレクトパス(直接経験)する。いちごが好物になる。

だからノンデュアリティは食べるだとか触るという言い方をできなくて、ダイレクトパスという言い方をしているだけであり、いちごをダイレクトパスするみたいな言い方も、わかっていれば「ああ、そういうことをいいたいのね」と何となく分かるというだけのこと。

なので、ダイレクトパスというかっこいい目立つ横文字があるとなんか良さげでしょ?ということ。やっていることと言うと単に直接経験をすることなんだけど、それを表す適切な言葉がない(ダイレクトパス以外にはなさそう)という感じ。

いちごを直接経験するんだ!といっても大げさだけど、いちごをダイレクトパスするんだ!といえばなんかすごそうに聞こえる。でも普通はいちごを食べるという。

ノンデュアリティは食べるとか触るとか見るとか聞くとか匂いをかぐとかの表現ができない無形のジャンルだから、ノンデュアリティを直接経験する!でも良いんだけど、キャッチフレーズとしてはダサめなので、ノンデュアリティのダイレクトパスをする!としたほうがかっこよくてキマるので気になるよねという感じ。

だからノンデュアリティのダイレクトパスという場合には、ノンデュアリティが指している経験そのものを直接経験できるよというポイントを言っているんだという理解でOK。いちごを口に入れてもぐもぐすることを食べるといっているんだという軽いノリのことをノンデュアリティではダイレクトパスと言ってるんだぜ!でOK。ダイレクトパスというのは座学や間接経験ではなくて直接経験のことを指すということ。


ダイレクトパスは目的地に直通で連れて行ってくれるけど、その後何をすればいいのかまでは教えてくれない。なので十人十色様々な解釈が生まれることになる。しかしこのページでは、そこの部分をフルコースのように順番仕立てで解説しているので、その経験を活かすことができるようにしていく。

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意味付けが自然と外れている時がある

自分がしている意味付けと他人がしている意味付けは基本異なる

誰かと話すときには、意味付けとイメージのすり合わせが必要。とくにビジネスパートナーとの話なんかは。

十人十色、三者三様それぞれ別々の意味付けを行い、同じ単語を使っていても指している内容が違う場合が多い。話をしていて変だなと思って尋ねると、含めている意図が違っていたりもする。よくある。

自分がしている意味付けと他人がしている意味付けは基本異なる。それを「一人ひと宇宙」とか言うこともある。それぞれがユニークなオンリーワンな独創的な世界観宇宙観を組み立てているという事。実は77億人全員違う意味付けの世界に住んでいる。

あなたとあなたの家族は似ている所も多いが基本全く異なった既存の価値観を持ち、そのおかげで異なる世界観で自己を現象に投影できる。なので、現象に付ける意味付けに変化が生まれることになる。このポイントがあなたがただあなたで存在できる価値+喜びとなる。


意味付けの曖昧さと不確かさ

積極的にしている意味付けというものの根底の不確かさというポイントを指摘する。

意味づけはほんの少し変えただけでもう意味が通じなくなる、それか意味の照合作業が必ず必要になる。

「昨日食べた水色のにんじんってとうもろこしだっけ?」

「昨日食べた黄色の野菜ってとうもろこしだっけ?」なら意味は通じる、が「水色のにんじん」はそういう物があるのかと一瞬思考が停止する。にんじんがとうもろこしなのかという質問も意味が合わない。

「タマネギとわさび色のこんにゃくのシャキシャキした匂いのキマる卵柄のもさもさしたコンクリート粉末がTwitter。」

こういう言葉遊び的な、わざと意味をちぐはぐにすると面白い。または、外国人がかたことの日本語で話すかのような面白さとか、文法と文脈が少しでもずれることが、お笑いのネタになる。

しかし裏を返せば、ほんの少し、1単語でもトリッキーなものを含めると何を言っているのか意味が全く通じなくなる。

「昨日あそこで買ったあの機械があれだったから、やっぱりあれしてくるわ~。それとこの前行ったあそこよかったからまたあれ食べに行きたいね~。あのときなにをあれして食べたんだっけ?あれおいしかったね~」

あれ、それ、どれ、これで話される言葉はもはや以心伝心でしかなくて共通のものを持っていないと何を言っているのかちんぷんかんぷんになる。積極的に意味づけしているのは確かにそうで、通じる者同士ではそれで無理なく話が通じる。

その他にも、方言でなんて言われているのかわからないとか、外国語のYouTubeを見ても何を言っているのかよくわからないとか、犬にお札を見せても人のような反応をしないとか、意味付けの不確かさと言うか、グローバルさの無さという根底からの不確かさ、決め手にかける感、意味付けという行為のあやふやさというか、このもどかしい感じがある。

逆に聞くと、「なんで意味付けをするのに、意味が通じないのですか?」ということ。

意味付けは限定的なシチュエーションでしか機能できなくて、前後の意味付けも必要になってくる。万能性がない。なぜ?

なんでそんなあやふやな不確かなものを利用してきたのか?それは今まで意味づけ出来うる範囲に生息していたから不備がなかっただけでは?そこから出るとどうなる?

やがて意味付けの曖昧さと不確かさに満足が行かなくなり、別の方法を探し出すのでは?

当たり前のようにしている意味付けという行為によって、それが目立つことで他の何かがかえって見えなくなっているのでは?

意味付けを一旦外してみるとどうなるのだろう?


意味付けが自然と外れている時がある

がんばって意味づけを外そうということよりも、意味づけが自然と外れている時があるからそれに気づいた方が早い。

何かに夢中になってて気がつくとお昼の時間だったりした時、思い返すと自分という何かはいなかった。

その時が意味づけが外れていて、現象として起こっている事に単に意味づけを全くしていない時だからスムーズにことが運んでいた。

後から思い返した時に感じたその感覚のことを、「あぁ、あれが現象と言われている感じだったんだー」とわかる感じ。

意味づけをしてないでスムーズにことが運んでいる時には、意味づけをしないので気がつけ無い。

ぼくの感覚では、超集中しているときとか、ゾーンのときとかには意味付けをしていなかったなあと後から振り返って気がつく、みたいなこと。寝て起きた瞬間とかも全く何も意味づけしていない。ドッキリ大成功~!で頭の中まっしろとか、不意打ちに何言ってるかわからなくて一瞬思考が止まるという瞬間にも自分と呼んでいる何かはいない。

そういう意味付けを外そうという努力をしていない、人に本来備わる意味付けのない瞬間は意識していないだけで結構多いと感じている。感情とか思考というのがとても遅くて後から付いてきているものだとよく分かると感じる。リアルタイム性に若干乏しいと言うか。

即時性が強いのは本能の分野な気がして、熱いやかんに触れたときにも思考を挟まずに瞬時に行動できるみたいなのは、いちいち意味づけしていないから速攻。

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ノンデュアリティとは? A.『気づきが「気づき」に気づくこと』

これまでの話がノンデュアリティとどう関わってくるのか、段々と始める。

ノンデュアリティとは何のこと?ノンデュアリティとは、今までの見え方から別の見え方に気づくこと。

(いきなり核心部は難しいとは思うがいちおう)一言でいうと、

1) 「ノンデュアリティとは『空』を指し示すもの」。空と呼ばれているものが何なのかをこれから知ろうとすること。空とは量子場の前にあるもの。量子場が気づき。
2) 「ノンデュアリズムとは、あるがままのリアリティの立場から選択すること。」
3) 「ノンデュアリティムーブメントとは、事実ベースのリアリティに参加することを表明したということ。」

※1 解説) 「空=ノーシング=名前のないもの=なんでもないもの」を指し示す手がかり/アプローチ/学習要件のことをノンデュアリティと言う。文化のこと。

ノンデュアリティルネッサンスというムーブメントの中で最大のテーマとなる「ノンデュアリティ」と呼ばれるものは、「気づき」のことを指している。気づきが「気づき」に気づくことを「気づき」と言う。または、気づきが「在る」と気づく。「在る」が在ることに気づく。とも言いかえれば同じことを指している。

しかしより細かく言うと、ノンデュアリティが指し示しているのは「空」で、「気づき」は空の中にある取り付く島のことなんだけれど、気づきに気づくことで空を見失うということが起こる。例えとして真っ暗闇の状況が空とすると、明かりがつくと気づき。気づきしか無いというのは言葉上はそうだけど、ベースに空が在る。空は実在する。

しかし、そんなに細かいことは気にする必要がまったくないので、気付きがノンデュアリティで一向に構わない。ノンデュアリティ=気づき=気づいている意識=気づきが「気づき」に気づくこと。

ノンデュアリティ上級者になると、その後どうする?という場所に出るので、その時から「空」という指標が必要になってくる。それまでは「空」が何かとかは不要なので気にしないで大丈夫。段階的な理解でグッ!

※2 解説) 気づきしか無いという段になり、しかし在る「現実」というものが単なる現象であるとする、というのがノンデュアリティの立場。これをノンデュアリズムノンデュアリティ主義/主張と呼ぶ。(ノンデュアリティの立場から見た世界観のこと)

逆にデュアリズムというのは、世界には自分という個人的ななにかがいて相互作用しながら暮らしているという見え方/目線/世界の捉え方/立場をデュアリズムデュアリティ主義/主張と呼ぶ。

※3 解説) 人類がタッグを組んでより密な連携プレーが必要な場面に入ると、それまでの「エゴ主体の個々人が好き勝手にばらばらに組み上げた仕組み」上では不整合が多発していることに憤りをかんじた。そうした動機から、空想主体の世界感から脱却を図って事実目線の在り方にシフトしようとする流れをノンデュアリティムーブメントと位置づける。事実は固定値なので誰でもが同じ目線に立つことが可能となる。多数決も不要な概念。空想が変数。


いきなり上記の解説ははっきり言ってわからないと思う。慣れが必要。でもノンデュアリティとは一体何なのか?をくっきりと示すとこうなる。

ノンデュアリティはわかってしまえば簡単な事なので実際簡単。わからない場合は単にどれを指しているのかわかっていない場合や、サングラスをかけたまま見ているからわかりようがないだけ。サングラスを外さないと実際の花の色がわからないと悩んでいるだけという例え。新しいサングラスに掛けかえるのではなく外すこと。どれがサングラスなのかをこれから見ていく。

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~ ・ ○ ほっとひと息 ○ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~

このページには、『目次へ』をたくさん付けてある。そのタイミングで『パッ』と思考で掴んでいるものを手放して楽に緩んで体に意識を向けてみる。いかに文章に読み入って体が緊張状態にあるかを知ることが大事。体がこわばって硬直しているので、それを毎回やめる。すぐ緩める。何度も試してみる。

お勉強はただの思考なので、リアル=それそのものでは無い。いくらお勉強したとしてもどうしたって絵に描いた餅なので、ほどほどにしかエネルギーをかけない方が身のため。

お勉強は知識のロードマップ。次に何がくるのかのお楽しみ予告の様なもの。答えがのっているわけでは無い。ヒントが載っている。答えは常に体験した経験から導き出したいと願っているから。

今、力を抜いてみる。緊張をやめてみる。ほどく。楽にしてみる。深呼吸が起こったらそれが正解。深刻さをぽいっと捨ててみる。頑張りすぎない。頑張ることが正解では無い。頑張らないことが結果として正解に気づく。緩んで待つことが実は最も肝要。これが「今というここにいる」という感覚のこと。

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ノンデュアリティを分けて捉える

ノンデュアリティを仕組みから納得する。ノンデュアリティを気持ちから納得する。

ノンデュアリティには『仕組み』と『気持ち』があって、ごっちゃになるとわけがわからなくなったから適切に分けて捉える。

苦しみから逃れたいという理由で気持ちの部分を重要視して解説されていることも多い。ぼくのように仕組みを知りたいとするほうが稀なのかもしれない。

しかし、気持ちの部分は自由に意味付けをする二元性の特徴の出せる領域なので、苦しみも程々に残しておいて構わないと感じる。

他の人が普通に持っている部分を持っていないと、共感できる感受性も失うことになるので、相手の状況と価値観を尊重したりもできなくなっていることにも気が付きにくくなると思う。そういうスピーカーさんもいらっしゃると思う。


ぼくが思う理想的な理解の仕方は次の通り。

今ここという事もできないような極いまのここだけを見た時、それは自動で起こってきている。というのが『仕組み1』

起きてきた事実に対して感情が自然に起こって、思考も自然に起こって、そこで気持ちを経験している。というのが『仕組み2』

その時の気持ちに、その時の価値観であと付けの意味付けをして喜んだり混乱しているというのがノンデュアリティでの『気持ち1』

もうその出来事は終わっているのにも関わらず、何日も何年も持ち歩いて悩んでいる。未解消の状態というのがノンデュアリティでの『気持ち2』

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仕組み1

今ここという事もできないような極いまのここだけを見た時、それは自動で起こってきている。というのが『仕組み1』

無限に速いスピードで実行しているCPUに似る。

在るというよりも速く、「あ」というよりも速く、「あ」を言おうとする間よりも速く、処理が実行されている。(処理が済み、スタンバイOKになっている。レスが1のみ、在らしめるのみだからとにかく速い)

だから気づきしかできない、気づき以外はワンテンポ以上遅れる。

「今」のさらに「最先端の今(「今」の「い」と思う「間」のさらに前)」にだけ意識を向けてみると、そこには気づきの「間髪性」しか存在していない。即時性というよりも速く、応答性、即答性、間髪性。

レスが速ければ速いほど、レイテンシー(延滞)がギャップが無ければ無いほど、一体性を帯び、調和した全体性に行き着く仕組み。

だから気づきがしていることは気づいていることだけでそれしかしていなくて、気づいているとは常にスタンバイOKの状態でいつでも答えられる状態のこと。また、即時(無限の速度)に応答している状態のこと。


無限の速度で間髪入れずに応答し終わり、待機しているのが「気づき」。


これを読んでいる間も一瞬も休まることもなく、気付きは応答を繰り返していく。確認可能。

全てがあるという場合には、こういったグローバル規模の仕組みも含まれているということを覚えておく。

参考:[コラム] 想いの前にある空白。無色透明の空。

仕組み2

起きてきた事実に対して感情が自然に起こって、思考も自然に起こって、そこで気持ちを経験している。というのが『仕組み2』

情報が波及して、波及した情報を元にそれぞれの仕組みがそれぞれの処理過程を経ていく。

あるインプットに対して、処理を行うのか行わないのかはプログラム的に言えば、if文みたいなことかも。もし、感情を現す必要があれば、どう表せばいいのかを次のシステムに知らせる。受け取った情報から自分の管轄で情報を再編纂し、次の部署に支持を出す、かのようなシステム。それが人間の内部システム。コンマゼロ秒で素早く行われている。

気持ち1

その時の気持ちに、その時の価値観であと付けの意味付けをして喜んだり混乱しているというのがノンデュアリティでの『気持ち1』

ノンデュアリティをある程度習熟しきらないうちは感情に混乱がある。起こってくる全てに適度な意味付けをしつつ、条件反射で付けてしまった意味に悩むという時期がある。または、それに逆らい思考してより良い意味を見つけ出そうとしたりもする。それもまた悩みの原因。プロセスとして通る道だから、それもまた良き良き。フラットな意味付けのなさを学んでいる。

気持ち2

もうその出来事は終わっているのにも関わらず、何日も何年も持ち歩いて悩んでいる。未解消の状態というのがノンデュアリティでの『気持ち2』

ぼくの場合、「自分はノンデュアリティを学んでいるのに。。。」という想いが先行し、なんでこんなしょうもない問題に突き当たるのだろうという思いが根底にある悩みを長い間持つ事になる。それはノンデュアリティとは何たるかを捉え違いしているというポイントに行き着くまで抱えた。ケースバイケース。個人差がある。

デュアリティ目線での問題処理の方法も使いつつも、それ以外としてノンデュアリティ側に立つ目線での処理も同時に進行していたという事。そのノンデュアリティ的な目線というのがそもそも曲者で、ノンデュアリティが何たるのかと言うのを個人的な自由な発想で固めたものを使っていたのだから、それは解消できないよね。という感じ。ノンデュアリティのイメージを自由に決めていた時期特有の悩み。


かと言っていま全ての悩み事が消えているわけではなくて、悩みすぎないし受け止めすぎないし深刻に捉えすぎないから、あってもなくても構わないというところにバランスしている。なされるがままという意味。もうそこに焦点がほぼないという感じ。

違いがあっても変な意味を付けないのでフラット。格差、特徴を見ない。今の自分の価値を知っているというか、価値を置きすぎないし減らしすぎず、バランスしやすくなる。ふらつきが少なくなる。多少のふらつきは任意で許せばいいと思う。

完全にふらつきを排除するというのは、心の動き自体をほっとくことだから、反応が全てドライになる。業務連絡、業務通話状態。感情を抑圧しすぎている。

または、感情の抑圧をせずに、放り出して開き直ってしまうと完全な沈黙、静寂。聞こえてもなにも聞かない、見えてもなにも見ない、考えてもなにも考えない、捉えてもなにも捉えない、関わったとしてとなにも関わらない、動いたとしてもなにも動かない、その後、諸行の一切から退いた。穏やかではあるが特になにもない。みたいな。

でも、人生を喜びとともに生きるのもとても楽しいこと。(少しのうっぷんと皮肉もあってもいい)。自己イメージを固めすぎない。究極地を求めすぎない。

子育てとか、将来とか何かしらの悩みも普通に合ればいいということ。「ザ・普通」。普通がゴール。

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ノンデュアリティデュアリティの違いは? A.『事実ベースと空想ベース』

ノンデュアリティルネッサンスとは?

ノンデュアリティルネッサンスというムーブメントは、「原点回帰」※1 のことでデュアリティの消滅ポイントというか変換ポイントのようなもの、または、ルネッサンスと言うぐらいで夜明けみたいなかんじ。枠が広くて多方面に及ぶから説明は難しい。正解はない。だけど、知っておけば役立つポイント/エッセンスというものがあるので、それを押さえとこうよ、というお話。

※1 言葉通りこれが本当の原点回帰。原点ぽい謎地点に帰るという話ではなくて。原点は「空」または「無」。

ノンデュアリティルネッサンスは、デュアリティ空想ベースからの離脱と精算、または変革と進歩進展までが含まれていく。

ノンデュアリティは『事実ベース』

ノンデュアリティが指し示す事実は、個の介在なしに物事がただ起きているだけという事実を指し、それにより、出来事に対し個の記憶上にある概念を当てはめられなくなる。その結果、個は個である事実にも悩まなくなる。

デュアリティでは意味付けをする科学だから個があるということが事実。意味付けをしたのであればそれをいつでも正しく認識できるという構造。ノンデュアリティは意味付けをしないので個が存在しえないという構造。もともと切れ目のない物があり、それを便宜上「全体」と呼んでいるという感じ。)

信仰の対象としてあった観念である「人間本位な責任を背負う自己実現」が無くなるので、望みと枷という常識に悩む現代人っぽく苦しむ人間像という生き方を選択しなくて済むようになる。

全体の完璧な枠組みの一部が自分という個を通して然るべき時にあらわれているだけ、というところに着地し、現れた現実に抵抗しなくなる。

それまで生きてきた「理念で望んだ現実」を欲しなくなる。(古い概念=世界を救う、成功者になる、愛されたい、役に立ちたい、etc。古い概念は、刷り込みかどうか、支払う対価があるかないか、無条件かどうか等でわかる。)

ノンデュアリティが指すのは「事実まで」なので、事実からひらめいた新しい「概念を築きあげる」のがデュアリティの守備範囲になる。言い換えると、ノンデュアリティベースに更新すると、事実をベースにした自己実現を望むようになる。(ここでは、空想から連想できる概念を空想ベースとし、事実から連想できる概念を事実ベースとしている)

そして、事実(=ノンデュアリティ)を土台に敷いた新しく創った概念で生きたい、新たな切り口でリアリティーを経験したいと望む。事実だけを感じ、生きたいと願う。

デュアリティは『非事実ベース』

ノンデュアリティ事実だけを示す事ができるが、デュアリティ非事実を示すことが可能。非事実を扱う手法によりいくつかのメリットがあるとする。

非事実は想像力を刺激し、イマジネーションを発達させ、それまでにない新しいイメージを(仮想的に)指し示す手がかりとなる。可能性の中に事実を見つける。

これがデュアリティの文脈の展開の仕方。

ノンデュアリティデュアリティの違い

デュアリティの範囲である自由意志は、この自分に起きたと感じたすべての範囲で意味付けを自由に更新できるよと、言っていて、

ノンデュアリティの範囲は、空は表現を支える土台の話だから、変えるとか変えないとかの話じゃないよね。と言っていると思う。


ノンデュアリティデュアリティの違いは切り口によって層を作れば様々に出せるのでざっくりとはこんなかんじ。波及効果も含めればもっとあるともいえる。

まとめると、

・「事実は全部が自然現象だよ」(ノンデュアリティの立場)
・自然現象に「自由な意味付けをして楽しんでいるよ」(デュアリティの立場)

これが基本。

それと、ノンデュアリティルネッサンスというくくりだと、このムーブメントのあらゆる側面があるのでさらに説明が難しい。というのも、具体的なUBI(ユニバーサルベーシックインカム)の構造もその一つだと感じるから。UBIなどについてはこのページでは触れないが、最上位互換の『チケット制』については触れる。

色々ある中で、このページで論点としている「無限の存在」とか、「悟った後どうすれば良いのか?」みたいな「総合的な理解教養」の範囲でのみ言うと、ノンデュアリティデュアリティの違いを一言でいうと、空想ベースが事実ベースに置き換わる動き」だと感じる。なぜどうしてそうするのかを紐解いていく。

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ノンデュアリティの効果効能

ノンデュアリティを知ると捉え方が180°変わる。

しかし、現象には意味がないという意味を、生きる意味がなくなると捉えるのは大間違い。絶対的な意味付けというのはなくて、相対的な意味付けがちゃんとあるという意味。

または、もう不要な意味付けをやめて良い、つまり好きな意味付けに更新して全然構わないよという感じ。または、一般常識が空想をベースにしているのに気がつくことで、それを利用するのをやめ、事実ベースの価値観にMNP※1 してもいいんだよ、ということ。

※1 ナンバーポータビリティーの略。スマホの番号はそのままで他のプランに乗り換えること。ここでは冗談を踏まえた例えとして、番号というユニークなアイデンティティは引き継いで他社に乗り換えることを指している。

現象にはある特定の決まりきった意味が元々無いというだけのこと。まだ何の意味付けもされていない新規で素の現象が、今という切れ目のないこの間(ま)に現れてきている。

まだ何も意味付けされていない、素の現象を捉えても素の意味しかしない。言い換えると、何の意味もない。まっさら白紙。

例えば、雨が降っていたとすると、事実は雨が降っているだけだから好きな傘を持って出かけよう、ということになる。がしかし、空想ベースだと、雨=かなしいだとか、憂鬱だとか、ネガティブな印象を特別に演出し、雨だから最悪とか言いテンションが下がるという感じ。思い込みや空想により、パブロフの犬のように反応が現れ、仕組み上それに一喜一憂せざるを得なくなる。

ノンデュアリティを知れば、そういう事実とは無関連な連想が外れてくるので、とてもありがたく感じるし、また、とても実用的な捉え方だと思う。雨が降って憂鬱だというのは明らかに事実無根のでまかせ(=過去の記憶の関連付け)であるということがわかってしまうから。そんなのを信じるというのは狂気の沙汰でしか無い。

ユニークな思い込みを信じ込んでいる場合などには、お笑いとか冗談に思えて面白いということも結構多い。しかし、嘘やでまかせが多めな空想ベースの設定を信じることができなくなることで、ドラマや映画を見続けるのが難しいと感じることも普通にある。

または、ありがちな思い込みの一つに、ノンデュアリティ=人生が楽になる=人生が楽しくなる。ということがあるがそうとも言えないでもない。結果そうなるかもしれないが、ならないかもしれない。ケースバイケース。個が元々持っていた思い込みの種類による。

自制していた思い込みが外されて限定解除すれば、それはそれなりに楽しいと感じるのはそのとおり。カチコチだったMyルールを緩めることで、頑なだった食べちゃいけないルールとかも別に思い込みだから好きにして良いんだ、みたいなこと。太っても別にいいんだと言う感じ。エゴ主体のこうあってほしいという思いも別にスルーしても構わないよということ。~しなくちゃいけない、~してはいけないという嘘八百、口からでまかせの信仰をキャンセル/ドタキャンすればいいし、そんなものを信仰している宗教団体に入信する必要も意味もまったくないということがはっきりとしてきたという感じ。話半分みたいなそういった種類の楽ちんさを感じるようになる。

逆に、自分が練り上げた個性的な世界観が楽しくて大好きな場合には、ノンデュアリティはがっかりする。ぼくは始めは相当がっかりした。が、ちゃんと学べばそれも思い込んでいただけだから、ノンデュアリティを学んで大正解だという感じに変わったけど。正直はじめはルールクラッシュにいらいらもした。

結果を感じるにはその前にやることがある。それは事実空想を入れ替えること。チョイス。

事実は、「ある決まりきった限定された意味付けというのがそもそも存在しない」ということで、それプラス「遊び心(イマジネーション)」というユニークな空想で自分好みの味を現れてくる現象にその都度自由につけて楽しめることが最強という感じ。

意味付けのない白紙のキャンバスに自由な絵を書いたらいいよという事。教えられた余計な概念を持つ以前の純粋な子供ごころを、大人になって様々な概念を理解できながらもそれを分解/破棄=再選択して必要に応じて楽しめるよということ。

ノンデュアリティ=個性の喪失、個人的な全ての放棄だと意味づけする場合もある(昔のぼく)かもしれないが、それはある意味、片極に全ぶりしすぎた一例=反面教師だと思う。暗に否定があると思うから虚無になる。それは混乱を生む。
(個を喪失すると、全体がある。というふうに言う場合は別。そちらにしても、個を喪失する時点で今の地球的ではなくなるので地球的なあれやこれやのイベントに参加しなくなると思うが、本当にそうしたいのか?は吟味が必要。)

ノンデュアリティを知った後も、空想(イマジネーション)を主体に生きても構わないわけで、予め決められた決まりきったルールはないと思う。単にそうすることが今の自分に嘘や違和感が無いから事実を主体に生きていきたいと言うだけであって、事実を主体に生きていくと、それまであったような空想を主体に生きていたときにあるような悩みとおさらばできたよ。というお話。(全ての悩みがという意味ではない。ある程度お別れしたという意味。)

しかし、事実を主体に生きる場合にも悩み自体は普通にあると感じている。特に思うのは、空想主体で生きていきたいとする層とコミュニケーションにずれが常にあって困るというのと、社会自体が空想ベースになっているところから、どうでもいいようなものが溢れかえっていて混乱しやすいという感じ。べつに全ての悩みが消えてハッピーだけになるということもない。お金の問題も普通にあるし、支払いもする。人間関係の悩みはもしかしたらさらに複雑にもなるかもしれない。単に深刻に捉えるということがなくなると言うだけで。個人差がある。

事実を主体に生きるとドライになるということでもなく、空想を主体に生きるとウェットになるということもなく、生き方捉え方は引き続き自由だという感じ。

悩みがあるときには悩みがあることのほうがシステムとしては完璧であるという捉え方。


" 引用:(チャネリング)

ワンネスの特徴はといえば、全部が自分なので、他を認めないということなのですが、他を認めないでできる経験の幅は無限の宇宙からすればそれほどの発展は望まれることがなくなり、何か新しい一手をという頃になって出てきたのが真逆の体制であるノンデュアリティという発想でした。

しかしノンデュアリティはその文化ではワンネスの反対のことなので、ノンデュアリティとは呼ばれずに、別の名前(概念)で呼ばれました。

今地球規模で行われた、ノンデュアリティルネッサンスという機構は、デュアリティ目線で受け継がれてきたアイデンティティをそのままに受け持ちながら、それ以外のものとの融合を果たそうという趣旨のもと執り行われましたよ。

ノンデュアリティとは何か、その答えは各人バラバラかと思いますが、(それを一つにまとめることは難しい)しいて言えるとすれば、自由の代名詞となるのではなかろうか。

デュアリティ目線の世界情勢の中えられた次なる目安として光り輝くのはいつの時もそういった可能性/役割を持っていると思います。

ノンデュアリティとはこういったものという定義は難しいので各人が思い描くそれを発見していきなさい。アーメン

" 引用元: ワンネス と デュアリティノンデュアリティ の関係性


チャネリング:「ノンデュアリティの答えは、デュアリティもワンネスも受け入れることだよ。8」

参考動画:無我が終着点ではない

すべて手放すのか残すのか?

脱皮をする。エゴ的な全てを諦めること、最後の最後まであきらめることができたのかどうか?

中途半端なあきらめ方ではまだ時間がかかる、さっさと覚悟を決めた方が良い。

個人的な都合(エゴ)を一旦全部取り外すと言うこと、一旦ね。

どうせまた後で1からビルドアップできるんだから、一旦全部自分の都合を取り外してみたほうが早い。賢明だしまず大丈夫。

自分の都合(エゴ)は個性なので残すので、後から再ビルド可能。なので一旦全部取り外して、新たなものが入る空間を広げる。というか、それをしないと次に進めないと言うか、自ら自分の進行方向を塞いで通せんぼしているのだから、そんなこと数年も続ける必要がないんだからさっさと交通整理したほうが良い。これは見えたまんまの事実。

もうちょっと先を見たときの新しい教養

(訓練された子機である)ぼくにとって、人間性(=にげんせい)はベストなあり方とは言えない。人間性は愛の中の『赦し』を学ぶにはベストな選択だと思ったけど、赦しを学んでしまった後は、もう小さな靴下になった。子供の頃に履く小さな靴下は大人になってからはきつすぎて履けないのと同じように、様々なレガシーさに嫌気が差すことはかなり多いのが悩みです。しかし、二元性を学んだ後、非二元性が出てきてくれたおかげでそれを学ぶことができて、二元性を持ったまま非二元性を生きるというどちらでもOKになれたのはぼくにとって新しかった。(人間性から非人間性への『意識のストーリー』を参照)

(空は未知のことなので)空という仕組みを相手にしている以上、決まりきった正解というものが設定できないので、すべてが仮組み、仮の説明、個人的に構築した概念であるというのは事実だから、権威は生まれないし、信じ込むということもしなくていい。常に上には上がいるので、参考にする事はあっても、信じ込むと言うだけの根拠が曖昧。新たな見え方が出たら即上書きされる。お手本にするべきノルマというものもない。自由。

単に誰かの意見に同調するというのは、より良い代案が出るまでのつなぎとでもいうか、現時点で未知から既知に変化したポイントのせめぎあいのところにある知識であると言った認識。ベンチマークの事。同意/協賛のこと。

単に得手不得手があるので翻訳が上手い人の翻訳で記憶しておけば大丈夫みたいなノリ。あんまりきつきつな定義付けをして頭を固くしすぎない。意図の俊敏性がなくなっていることに自分で見分けられなくなるから。

空を相手にする、無限を相手にするということは、=無限なのだから未知の方にアクセスする。未知の方に広がりを持つ、未知の方に可能性を開拓する、場合が多いと感じる。(既知の方に無限に広がりを持つというのも普通にあるとも思う)

有限の場合は既知の情報にアクセスする。未知の情報へは普通恐れるからアクセスしない。「(すでに)私の知っている情報をください」というスタンスを取る。(自分の使っている)既知の情報の中で最も良い物を最も良いと言う価値観で見る。比較や対象化をする。それにより一方と他方で重み付けが発生し低い方を否定する。価値と言う基準がある。否定がある場合は、必ず、対象を区分けして捉えて比較し、良い悪いのジャッジをしている。

例えば他の存在がとても重要なものだとする場合は比較と言うものが良いほうに働く。排他する方には働かない。それがうまくはまる場合はそれで良いが、うまく決まらない場合には、不都合があって、例えば自己主張の殴り合いが起こる場合がある。要するに喧嘩。言葉や態度での暴力。相手を否定するところから来る仲違い。見解の不一致。

有限であることを選択している場合は、必ず「有限であると言う事を吉」とする。有限であるという設定に安心をする。

良い悪いではなく、挙動の違い、個性、特徴がある。特徴的なやり方、在り方がある。ベースの信念がある。

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空とは? A.『空は無』

読み方は空(くう)。同じ意味で使用されている別名は、「無」「ゼロポイント」「ノーシング」「なんでも無いもの」...etc。

自己の不在性について

空の聖質の内の一つに不在性というものがある。「不在性という物があるおかげで存在できる!」

" 引用:(チャネリング)

ノンデュアリティ

自分という存在を突き詰めていっても到達することはなく、自分の不在が在るだけという認識。

軸となる自分がそもそものところでいないので、自分というものがいるという前提によって成り立つ「相手」とか「他人」とかいうのも概念でしかなくなる。

実際にはだれかというものはいない、という発想。なぜかといえば、自分というなにか確固としたものが存在していないと突き止めたから。

唯一あるのは、「気づいている意識」だけで、気づいている意識は意識活動をせず、気づいているだけだという感じ。ただ「在る」という感じ。

" 引用元: ワンネス と デュアリティノンデュアリティ の関係性

昔書いた別記事なので、短いポイントだけを抜粋して引用したけど、サラッと目を通しておくと、なにか気づきがあるかもと思う。ちょっと変なところとかもあるにはあるが許容範囲。

ワンネス と デュアリティノンデュアリティ の関係性

ノンデュアリティ=存在は在る、認められるが、それに「自己」というなにかをくっつけられない。投影できない。自己とかエゴだと思わない。私という意味付けで考えられているかのようなものがいると感じていない。私ってなにを指しているの?その私って言う意味を付けている捉え方のものがない。(←ただの見え方だから難しく捉えない。ふ~んぐらいでOK。)

空とは?

正直な所、空については未知の領域のことを指して言っているので、絶対確実なことは何一つ言えないと思う。という建前を前提にしつつ、ぼくの今思い描く空とはなんたるかを示したい。以下、チャネリング混じりの文。

空とは創られたものではない。物理的な物ではないし、エネルギーでも場でもない、領域でもなくて、そういう知識や知覚や、空想の及ぶ何かではない。そうではなくて、それらのベースにある無のこと。知覚し得ない領域を空と便宜上呼んでいるだけだということ。

空は無のことなんだけど、無を正しく認識するためには、無が何なのかを定義するというよりもは、無以外を定義して、わざとずらして「今定義したものではないよね」という打ち消しのアプローチを使ってもっとくっきりさせたい。つまり逆説を使う。または、逆説でも上手くいかない時にはパラドクス(自己矛盾)を使う。パラドクスであれば大方のことは(仮に)説明が可能になる。

例えば、

デュアリティを定義して打ち消してノンデュアリティとする。

分離の意識を定義して、反転させて反分離非分離の意識とする。

または非分離を定義し、自己矛盾を内包させて、それを解いていく形で分離の意味を形作っていく。(ゲームマスター達の醍醐味がここにある。)

空それ自体を定義するのが変な理由としては、それが底辺だから。根底だから、すべてを乗せたお盆だから。トレーだから。定義させない、できない、しない、ノータッチ、初めからそうしておけば誰も後から困らない。

これが核心。空のコア性。

空を最もフリーで無垢で素の状態にしておけば、その後派生する全てがその恩恵に預かれる、という荘厳な仕組みが、その全容。

空は未知それそのもののことなので一切の意味付けを、「受け付けるからこそ受け付けない。」意味付けをした瞬間にすでに既知の事になるので未知を見ている訳ではなくなる。これがとても巧妙に出来ていて、誰も気づかないからこそ上手くいく仕組み。最初のまんま一切変更されずにきた唯一性のある仕組み。今後も変更できない。誰もしようとしない。核のこと。

誰も理解していないし、誰も理解ができない最高のもの。未知それが空。それで空には全てのことをキャンセルできるかのような無という働きが生まれるわけだ。無と言った属性があるかのように、派生したものからは恐れられる(笑)わけだ。(便宜上与えたキャンセルするという属性に、無という意味を与えている。その力を無と呼ぼうよと、誰かが言って賛同したということ。怖いというわけではない。)

意味付けを一瞬受け付けたかのように感じても、すぐにもうそこからなくなるのが未知である空。

空に特別な意味を付けない。

「非体験」の空

空は、空想ではなくて実相の話なので実相の話はたぶん初めて聞くことだと思う。

ぼくが空って面白いなあと感じるのは、空が非体験だから、なんにも経験していない時は逆に言うと非体験である空に直接触れている時だと言う発想。

何か味がするのは空から分離したということで、既知の経験にラベリングしている。つまり、なんにも味がしていない時、無味の時こそが空を味わっている時。未知の味(未知の情報網)に触れているから判定が出来なくて、スルーパスしている。重要でない情報として無視し、より重要であると意味付けをしてある既知の情報を求める。

何の音もしていない時(無音)が、空を聞いている時で、

何の感触もない時(無感触)が、空に触れている時。

空に直接触れている時というのは、こう言った何の経験もない時がそれだという真逆から見たような発想。ね、面白いでしょ?

未知の領域である空に、直接触れることで未知の情報をゲッツしてみよう!という詳しいやり方の紹介もしている。(→ ハイアーセルフに直接尋ねる情報精査の方法を参照)

未知であれば未知であるほど、空というものに接近している。
既知であれば既知であるほど、空(実相)から離れて行っている。

便宜上、接近/離れると書いたが距離というものがあるわけではないので、空性から離れるとか近づくと捉えれば大丈夫。空性というのは空という実相を仮に捉えたイマジネーション/概念化した知性/性質のことで、空それそのもののことを指してはいないが近似な性質を指すもの=便宜上の同意/ツール。

空と創造物は同じもの。「空」=「ある一側面/次元違い/重なり/レイヤー/角度違い/意味づけ違い/等などが創造物すべて」ということ。非分離。空と創造物は別物ではなくて同じものの立場違い/属性違いみたいなこと。フォーカスポイント違い。被造物。空が無で有が被造物という構成。同じものの原料と生成物みたいな役割。または、レシピと実際の料理。

形を変えた空が空の中で別の空たちと(便宜的に)暮らしている。空でしか無い。空が実在している。

空想は、空を想うと書く。面白い。

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ノンデュアリティの概念化作業とは? A.『ワンクッション制』

ノンデュアリティが指す「素の現象」と対比させて、「ノンデュアリティの概念」とはなんなのか?

知性タイプと感性タイプでは納得の仕方が異なるので、概念を説明するのは主に知性タイプの人たちに向けてわかりやすくしたかったというのが理由。ぼく自身が感性タイプの人から学ぶときに苦労した点を知性タイプ向けに発信し直したい。

素の現象というまっさらなものしか無いよ。というのがノンデュアリティの論点。だけど、それじゃあさっぱりわからないので、説明してほしいとなると、どうしても概念を取り出さないとならなくなる。なので、覚えておいてほしい大前提は4つある。

1) ノンデュアリティは概念ではないから説明不可(でも知らない人は利用できないからどうしよ)
2) 概念ではないことを概念化に成功すると配布可能になる。(ノンデュアリティを概念化するのは理解可能なものにして配布/利用したいから。)
3) デュアリティは概念だけで完結している。(クローズド世界なのでその中で概念を配布/利用しあっている)
4) 概念化したノンデュアリティは、デュアリティ目線で理解可能なものとしてうまく機能できる。

ノンデュアリティという概念化するのが特に難しいものをあれやこれや頑張って概念化に成功すると、配布できますよ。それを配ると、デュアリティの立場で利用可能ですよ。という構成がノンデュアリティを概念化するという概念化作業のこと。

ここから、ノンデュアリティの概念の要点だけをさらっと言えば、それは次の通り。(さらに詳しくは下記の章で説明する)

条件が在ると分離は認識できる。条件が在ると非分離は認識できなくなる。

条件が無いと分離は認識できなくなる。条件が無いと非分離は認識できる。

ここでいう条件とは何かは別に解説する。コツはその条件がないときだけ非分離というものを認識することができるという所!

または、条件があるからこそ、分離を認識できているという所!この2点が最大のコツであり、ポイントとなる成分。

ノンデュアリティの概念化作業は中~上級者向け

正確に言うと概念は「素のまま」または「それそのもの」ではないのは感じてみれば当たり前のことだけど、今度は逆に概念の方を信じ込んだ場合どうなるのかのデメリット面を書くと、

デメリット

概念で理解するとなればそれも条件となって、「素の非分離」のことではなくて、「キャッチコピーでの非分離」(=キャッチコピーでのノンデュアリティ) ※1 を作り上げることになる。(※1 形式化、抽象化され、概念に置き換えられたノンデュアリティの世界観)

ここで問題となるポイントは、形式化されたノンデュアリティの世界観は、さもノンデュアリティというものがあるかのような印象をもたせ、全体性から分離し、専門化し、抽象化し、概念化し、哲学化し、言葉上のそれを思考の産物として空想し、体系的に定義づけされた学問として扱いやすく整形することになる。圧縮。学問化、宗教化。要は、何を信じるかに論点が置き換わる。(ノンデュアリティもどきとは?を参照)

なので、自分または聞き手の意識をモニターすることが要。

メリット

良い点/メリット面は、キャッチコピーでのノンデュアリティは、多くの人の興味を引き参加者を増やしたし、これからも増やし続ける。ジョイン・コネクト要素。

しかし、正しく取り扱えば概念はクッションのようになってくれるので便利なものでもある。ショックアブソーバーとしてだったり、知識や経験値の隙間を綿(情報)で埋めたりできる。

ノンデュアリティの概念を正しく使うというのは、参加者全員がそれは概念ですよという前提の上で分離の視点から非分離を仮に説明しようとすることを指している。

つまり、デュアリティで扱えるのは「ノンデュアリティの仮説明まで」=「ノンデュアリティの仮説/概念」までですよとしている。ノンデュアリティが指す事実である「これ」は概念ではないけれど、「これ」というものの概念は形作れたよねとする。

例えれば、車を概念でいくら説明しようとも車に乗ったことにはなっていない。という感じ。しかし、概念で説明されたら試乗せずに車を購入することも一応はできる。みたいな。実物を見ないネット通販はどれも仮説明/概念でしか無い。(例え:いちごのダイレクトパスとは?を参照)

つまり、

1)ノンデュアリティとは、素の現実のこと=事実空想じゃないもの=言葉や概念に置き換えられる元になるもの、
2)ノンデュアリティが指し示している物事を言語化するときに使う概念=キャッチコピーでのノンデュアリティ

の2つのものができたおかげで空想的なものと現実的なものの「」ができたことになる。

実際には訳せないといった合意のもとで、説明できないものを仮に説明してみること、うまく言い表そうとする過程を概念化作業と言う。

ノンデュアリティはコツさえ掴めばだれでもわかっているふうに解説できると言われている。ぼくもあなたもその内の一人。なぜなら、各自が自分でどれがそれでどれがそれじゃないのかを判断するポイント/情報精査のポイントを掴む必要があるから。要は概念化に成功したものはすべてが「ヒント」でしか無いということ。

ノンデュアリティと、ノンデュアリティもどきは、食べるとかみごたえがある美味しい味がするリアルな餅と、マンガに描かれている絵に描いた餅ぐらい違う。そこをちゃんと持っているのであれば、ノンデュアリティを概念化して配布するのも利用できるようになるので便利だと感じる。が、やはり中~上級者向けかもしれない。

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デュアリティの本質とは? A.『無限の多様性』

デュアリティのポテンシャル。秘めた可能性。意匠。デザイン。について。

自分以外という存在を100%認めた。無限の多様性。全体に調和して、エゴではない良さだけがあふれ出てくる状況。

誰かにならなくても、自分でいいんだよとする。誰も否定できないし否定しない。完全肯定ができる。今目の前にいるその人がそのまんまで良いんだよとはっきりと言える。宣言できる。

どこかに連れて行こうとしない。誘導したいと思わない。何かになってほしいと感じることなく、そのままでいいんだとわかる。コントロールに及ばない完全な存在だと認める。

今、あるがままで存在してくれてありがとうと心の底から感じられている。誰かがいてくれているという事。この世界。それがどれだけ素晴らしいと思えるのか。感じられることなのか。

言葉に尽くせないほどの感謝を感じる。

大好きな友達やペットや家族がいた時に、その人たちに価値があると思うのならば、もしその人たちがいなかったらどう思うのか感じてみましょう。

今後ずっと、一緒に遊べなかったり、一緒にどこかに行けなかったり、一緒に暮らせないとするとしたら何を感じるか一度試してみましょう。

そういう人や友達や家族が、ただいてくれるというだけでどれだけ自分が安心できているのか感じてみましょう。

それと同じく、あなたの大切な存在にしてもあなたがいてくれるだけでどれだけ価値があるかに優しく気づきましょう。

この世界にあなたがいてくれるということだけで、それ以上ない最高の価値があなたにはちゃんとあるということです!

チャネリング「人というのには、エゴがある。だからどうしたというの?」

チャネリング「そんなこと赦してさっさと遊ぼうよ!仲良くみんなでね!」

ここまでがデュアリティの本質。

(『無限』を相手にするも参照)


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次に、デュアリティの構造を解説していく。

『リアリティーを新たな切り口から経験してみたいので、「条件」というツールを使ってみたい!』

現実の見え方を決める方法として、(分離の口実として、捉え方として、切り口として)必要になるのが『条件』。

もし、条件が一個もなければ、分離のしようがないので一つの世界観で見る。それは無条件である「全てはすべて/私」。

ここからの章ではデュアリティというものが何なのかを紐解く。

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分離するための手順の獲得方法

自分が持っている条件リストのチェックボックスにチェックマークが1000でも2000でも3万でもつけていて、それをさらに増やそうとしている。

そのリストの中にある、埋められそうな空欄のチェックボックスを見つけるといても立ってもいられなくなって、チェックボックスを埋めたいと願う。

チェックボックスにチェックマークがたくさんついているほど、つまり、様々な条件をたくさん満たしているほど、自己評価を高められていると思っている。

たくさんの条件を持てば持つほど、進化している気がするし、周りからの評価基準も当然のようにそうである。周りとの「比較」も条件の一つ。

条件リストの幾億万種類の条件を自分のものとし、条件について知り、条件をマスターし、条件を得る条件を満たすことを工夫したい。

一言でまとめると、条件リストの全部の空欄をチェックマークで埋めたい。

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条件はツール。リアリティをきれいに切り分けるナイフツール

デュアリティは主に分離の視座を用いている領域ともいえる。

適切に分離するためにはツールの助けが必要。

ある条件を得ると、その条件というツールを使った視座から見た分離の世界をかんたんに経験することができる。

ある条件を獲得すると、その条件を通して見えた世界観は、その条件の使用者全員で共通の合意が作られる。なので、とても便利。※1

生まれてから1から個人的に独自の条件を作らなくても、すでにある社会通念上の条件をピックアップすれば、その条件が見せることのできる切り口での世界観を使用者も経験(ログイン)することが可能。すでにある輪(話)に入っていける。連載マンガやシリーズドラマを途中から見始める感じ。

比喩として、「恨み」という条件を取り入れた場合、恨みとはいったいどういうもので、どう感じ、どう行動し、どう考えるのかというのを自分で経験することになる。

さらに、映画、ドラマ、マンガを見て恨み方、恨まれ方を学んだり、親や兄弟や上司、同僚と演じあってみたりしつつこの仮想現実で結果を得たいと願う。「条件名=恨み」とはどういうものなのかを聞いた話ではなくて、自分の中から経験から導き出せるものを欲したという感じ。

今度は逆に「条件名=恨み」というものを取り入れない場合、恨むということが本や話では聞いたことがあっても自分で経験したことがないので一向にわからない。恨みというものについて様々に学んでもわからない。全部が愛に感じてしまい、恨みからくる憎んだりといった経験が作れなくなる。誰かを恨むということ全般がわからないままになる。「恨みって何?ちんぷんかんぷん」状態。

また、恨みと妬みの間をいくようなまだ言語化/概念化されていない知性を得ようとする場合。それはまだモヤッとしていてうまく言葉にすることができない感覚を持つ。

なので、今手札に持つあらゆる条件というカードの中から今の状況にピンときそうな様々な条件をピックアップしつつ、吟味し、どれともそぐわない場合にはその現実に新たに名前をつけることでそれを固定化する。概念化する。

一番いい例がオレオレ詐欺などの新しいワードで言われる現象のこと。普通は「詐欺」といった大きなワードで区切るようなものを、その状況により当てはまる小さなワードで目印をつけることで認識しやすくなり、その現象を経験したい大勢の存在の役に立つことになる。

「条件名=オレオレ詐欺」という現象をインプット/ログインしやすくなった。

(ちなみに、詐欺はだめなこと、という教えられた善悪概念では「条件名=詐欺はだめ」という条件を得て、そこから見えた世界を認識しているということ。逆に、詐欺という知性を獲得したい時には詐欺はOKという条件も必要になる。という感じ。)

アセンション、ワンダラー、令和などなど上げればきりがない新規ワード群も新しい概念という分離の概念である。

※1 プログラミング分野で言うところの、関数、スニペット、ライブラリ、API、モジュール、プラグイン等だと思う。条件を関数と読み替えても同じことを指していると思う。ちゃんと動く一式をみんなで構築してみんなで使っている。結局のところ、関数を呼び出して使用しているだけだと思う。

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まだ名前のついていない条件(概念)

若いときには体が健康であるのが当たり前なので意識しないが、歳を取ると病気が当たり前みたいになって、健康であると逆に謙遜するようになる現象がある。

歳を取ると病気が勲章みたいになる。持病が話題の筆頭になる。年をとっても健康であるときには羨望やらを見越して空気を読んで「いやいや私なんかは。。。」といい、健康であることがさも触れてはならない話題のような感じになる。

こういった現象にはまだ名前がついていない。まだ名前がついていない現象は短い名称で呼べないので「あの時感じたああいう感じ」という知性を言葉で伝えようとする。

しかし、これに短い呼び名が付けばそれを誰もがわかる『条件』として利用可能になる。(ちょっと前にあったのが、かまってちゃんとか、承認欲求とか、若者のスラングだけれど、条件に名前をつけた一例。条件によって無形のその現象を簡単に識別できるようになる。)

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どれが条件か?

『条件』は分離するためのツールなので、分離の意識上の全ては『条件』だと言える。ポジティブな条件もネガティブな条件も同様にある。

言葉を覚えることも、数字を使うことも『条件』と言える。生まれてくるすべての人が、1から独自の言葉や数字に置き換わるものを作らないで済むので、とても便利であると同時に、その言葉や数字を使う文化(価値観や世界観)にログインしたことになる。

条件=概念なので、概念を覚えることは条件を自己の現実に導入したということ。ツールは使うものなので一度獲得できたツール=概念を使った人生を演出する。

上記のように条件を増やしたくて減らすことはしたくないので、どんどん条件が集まる。どんどん分離していく。

条件という手札が増えたので、今まで気づけなかったことに気がつけるようになる。経験を様々な条件による切り口で眺め、一つの経験からそれまで以上のより多くの可能性に気がつくようになる。つまり、多様化する。

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条件の中身 (無限の多様性を示せる仕組み)

具体的な条件とはどれなのか?というのは、ほぼすべてのことなので多すぎて言い表せない。なのでラベルを列挙する。個々のラベリングの中身までは到底言い表せることができないほど膨大だけど、例えればウィキペディアやなんかで調べて出てくるものはみんな条件の中の一つ。

要は、大元の無から便宜上分離させ、識別するに至った全ては分離したものであるという感じ。ルールや定義を付けることで見かけ上多様化に成功した。

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○ 名称や意味を与えて分離を決める

名前 ラベル シンボル 比喩 カテゴライズ ..


○ ルール・テーマ・仕組みを定めて分離を決める

ルール 初期設定 個性 個人設定 常識設定 価値観設定 世界観設定 物語設定 認識範囲設定 意識設定 興味 文化 文明 規格 ..

テーマ 目的 刷り込み 歴史 シナリオ イベント 立場 任務 仕事 課題 ..

仕組み 構造 環境 気候 生態 系 界 層 相 密度 次元 物理 属性 タイムライン 順序 ゲーム サイズ 規模 統計 色 ダイナミクス 運行 変態 ..


○ 思考・感情・感覚システムの反応で分離を決める

思考 概念 言葉 理屈 理論 学問 哲学 心理学 科学 解釈 比較 判断 観念 主客 空想 展望 願望 基準 指標 前提 定義 特性 癖 ループ 目標 理想 理念 計算 フィルター イメージ コンセプト 明瞭化 手本 正誤 ..

感情 出来事と感情を関連付ける 感情に重み付けをする 感情連鎖 怒り 悲しみ 喜び 感動 ..

感覚 触わる 見える 味 匂い 音 体感 性 時空間認識 エネルギー感覚 平衡感覚 角度 回転 速度 温度 湿度 感度 高度 濃度 質量 重力 衝突 粘度 柔らかさ 輝き 刺激 アート ..

..etc

~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ ~ ・ 

(思いつくままに書いたので分け方とかは微妙らしい。オブジェクト指向などすでにある学術的な分類方法を使ったほうが正しい。)

この一覧の見方はたとえば、
・「初期設定」であれば、じぶんは男で何歳でどこに住んでいる、という初期設定を決めると、それにそう価値観で現実を切り分けたり、自己投影できるようになる。
・「生態」であれば、水生植物と水生動物は水の中で生息し、陸生植物と陸生生物は陸で生活すると決めれば、その区分で今目の前に生えている草をその観点から眺めることができるようになる。
・「感情に重み付けをする」であれば、嬉しいときが良く↑て悲しいときがだめ↓みたいな設定にしておくことで、それを条件に感情を抑制できるようになる。

などのようにしている。が普通はそういった発想を用いず、無意識に暮らしている。

今度は逆に、条件がなくなるとどうなるのかも示すと、
・もし「認識範囲設定」という条件が無くなると、一般常識の話をするときの合意ができなくなる。ある人は宇宙規模での話しかせず、ある人は個人的な内輪の話しかしない場合では、一般常識の話に認識範囲を絞って話をする必要がある場合にそれができなくなる。認識範囲設定により焦点の絞り具合を定義しないと、公共のルールなどを作れなくなる。
・もし「理念」という条件がなくなると、目指すべきお手本がなくなってしまうことで、文化は崩落する。その余波で不正というものの定義もできなくなる。

などのような当たり前のことを小難しく説明していると言うだけのこと。

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無条件とは?

すべての条件を破棄(初期化)し、条件が一切なくなった場合にはもともとの『無条件』がある。

無条件ぽいものと言う意味で言う「無条件さ」は条件の一つなので、「条件名=無条件さ」を求めるのも条件リストに数あるチェックボックスの中の一つ。

しかし、実在の性質を示した『無条件であるという事実』は条件ではないので条件にはなりえない。

『無条件』はまっさらな状態でもともと備わっているたぐいのもの、取り外しや変更ができないもの。

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無条件の愛とは

『存在しているだけですべての願いがかなっていること』を無条件の愛という。存在しているというただそれだけのことで、すべての願いがすでに叶っているという感じ。ぼくはそう教えてもらいました。

あと今知ったのは、愛の属性の一つに『無条件さ』というものがあり、その一側面を指して無条件の愛を感じるとか言っていると思っていたけれど、そうではなくて、『無条件』それ自体が『愛』なんだなあともかんじた。

「条件の無さ」「一つも条件がないという事実」それ自体が愛であるというのは、とても重要な視点の切り替えだとかんじた。「無条件の愛」ではなくて、『無条件性』という愛。

(否定しないも参照)

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無限性の『条件』とは?

無限性の『条件』とは、もともと非分離な全体性だけが在るところに対し、適切な条件設定を加えることで分離させて捉えやすくすること。特徴、個性の領域。

認知できるかできないかだけで言うと、

条件が在ると分離は認識できる。条件が在ると非分離は認識できなくなる。

条件が無いと分離は認識できなくなる。条件が無いと非分離は認識できる。

具体的な条件は、上記「条件の中身」を参照↑。

条件がないからこそ、非分離を認知できるという発想の切り替えがおもしろいところ。上記の条件の中身で取り上げたような条件があれば、非分離の認知は難しくなる。不可分な全体性の極一部にしかスポットを当てないことで、それを認知しているというトータルな仕組みを見なければ、分離しているという構造はつかめない、みたいな発想が面白いと思う。


無限性というものは一定の調和した規則に従ったものであると思う。それを一言で秩序という。

秩序なくしてはカオスしか生まれない。カオスとは、本当にとりとめもない何の脈絡もなく、何かをベースにしてその上に何かを構築することのできないという感じ。良いサンプルとしては、できの悪いAI画像がそれを表す。

自然界に目を向けてみると、フィボナッチ数列というものやフラクタルというものがあちこちにあって、調和している。美しいと感じる。温かいと感じる。

無秩序に制作開始すると、すぐにどん詰まりになるのは何かを制作できる人共通の悩みだ。

宇宙は大きさや小ささも含め全てのスケーリングにおいてある決まった共通の指標で制作された。

それが無限性である。

今しがた説明を受けた無限性はまだわかりにくいのかもしれません。

しかし、何かを元に何かを制作するという種類の無限性において、基音となる、ベースが常になりひびいいているということ。

それを一緒に感じてみませんか?

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ノンデュアリティのその後は? A.『コラボレーション』

名前上では、ノンデュアリティデュアリティと対比したものという位置づけ。しかしぼくの個人的なイメージでは、下図のようなグラデーションな感じ。上位が優れているとかではなく、図示しただけ。

1)       空
        |
2)   ノンデュアリティ
        |
3) 概念化したノンデュアリティ
        |
4)    デュアリティ

※1 すべての基準である「無」。
※2 全ての意味付けを外したときに残った「在る」
※3 配布可能なように圧縮された、概念化に成功したノンデュアリティ
※4 いつもの概念だらけの日常

ノンデュアリティ非分離という実在を実際には指しているので、デュアリティとは対応できるものでは無い。しかし、ノンデュアリティデュアリティは対応する位置づけとして認識されている。この理由は「概念の継承」が欲しいから。

実在しているものは「空」なので、本当は何とも比較できたり対応できたりするという事柄ではなくて、文脈が異なるものどうし何だけれど、ノンデュアリティというのはデュアリティからお引越しするよというニュアンスでの対比として「分離」から実在の性質の「非分離さ」というポイントに絞って言っているのだと思う。

ここで出てきた「概念の継承」というのはとても簡単。単に「デュアリティで培ってきた分割するというスキル」を、ノンデュアリティベースに変化した後にも使っていきたいだけ。

クリエイションするときに、分離の意識ベースだと、それぞれ基本的な合意がなくて、各々それぞれにてんでバラバラにクリエイションすることになって不都合がある。かと言って、誰かが決めたルールに賛同するというのは(デュアリティの見え方では)必ず対立意見がある。

なのでどうするのかと言うと、自分で決めさせるのが一番手っ取り早い。それをどうするのか、というと『事実』に直面させるということ。なにが事実か分かれば、何が空想か分かるようになる。早い。

その文化で言うところの、最も高度に進化したっぽい誰かさんが言うようなその人だけにしか確認できないような真実味のある概念ではなくて、「実在」に相まみえればだれでも事実を認識できる。ノンデュアリティはわかってしまえば簡単なネタバレ案件。わからないと事実とは無関係のややこしい説明が始まるだけ。

なんか難しい説明をすれば、頼られたりかっこよく映る。というかんじ。

無限性というレギュレーションを合わせないと、クリエイションのレベルがエゴレベルになり、意見の対立になる。主義や役割や立場からくる主張全般=エゴの主義/権益を守ろうとする、排他的で他を潰すことに余念がなくなる。自我(=エゴ)と真我(=ハイアーセルフ的)とは異なる。

クリエイターの役割は、いかに手を繋ぎ合い、大きな枠組み、大きな役割を担うか、が大事。あるところからは、エゴがじゃまになるポイントがある。クリエイションの視座を真我に移行する。

真我はエゴからすれば総合力がまさる分、なにかすごいことのように捉えるかもしれないが、重み付けは不要な概念。エゴ主体から事実主体に切り替えれば、フラットな重み付けの無さがわかってくる。

つまり、ノンデュアリティは単なる通過点でしか無い。ゴールではない。

ノンデュアリティベースの経験がこれからスタートするよ!ということ。見え方を変えて、いざ仕切り直し。

そのときに、デュアリティ目線で培ってきた物事を正しく比較するというスキルも使えばいいじゃない、そうしよう。という感じ。

事実ベースで生きる(クリエイションをする)ということで、根底のテーマの統一をすることによって、コラボの質も目的も方向性も何もかもが一致して大きな自然のような大きいうねりにまで発展していくだろうとかんじた。

空想ベースだとどうしても国で分けたり、企業で分けたり、文化、言語、仕組み、構造、社会などなどなどで分けたりと、分離の意識なのでどのようにも分離をし、まとまるということが少ない。他業種や他ジャンルでのコラボもわりと地味。

事実ベースだと、非分離であるという当たり前の基準によって、様々な業種、人、コミュニティ、文化レベル、言語に依存しない多言語グローバル、または宇宙規模でのコラボレーションの土台となれるわけだ。

地球内だけではなくて、宇宙規模、銀河規模でも非分離であるというのは一致した世界観だと思う。高度な連合とレギュレーションが一致できるというのは円滑なコミュニケーションやコラボ、同等の意思疎通においてぜひ揃えて欲しい要件だろうと感じる。向こうにしてみれば。

相対的に高度な文明とコラボする段になれば、能力の高い方が高い能力を維持発揮しやすさも重要だと見る。例えると、柔道の師範代に稽古をつけてもらうかのような粗相の無さも重要だと感じた。

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次なる展開(予告)

ここまでのノンデュアリティについての解説は以上で、ここからは既存以外の新しいノンデュアリティの説明の仕方を試みていく。が、深堀りはあまりしていないのでストップしている。時が来れば進めるかもしれない(数年後単位)。楽しみな分野ではある。

オンラインゲームモデルと『ゲームマスター意識』

ノンデュアリティの優れた説明として、ぼくは今の所「MMOなどのオンラインゲーム」をイメージしている。

MMOとは、大規模多人数型オンライン(Massively Multiplayer Online)の略称。

MMORPGなどのゲームは手元のPCにゲームクライアント(ゲームのソフト)がインストールされていて、サーバーに全世界からのプレイ情報が集約されてやり取りされている形をとっている。(クラウドという見方でも可)

手元の画面にはゲームクライアントに含まれた画像イメージがリフレッシュレート60Hzという形で毎秒60枚の画像として処理され表示する。

サーバーとやり取りするのは(おそらく)数値やテキスト情報だけなのでシンプルで早く延滞なく何万の人が同時にリアルタイムに参加できる。

毎瞬毎瞬新規に画像が置き換わる(毎秒60回変わる)ので、実際には絵と絵のつながりはなくて、パラパラ漫画のように独立してはいる。

ノンデュアリティの説明で今の所MMORPGなどのゲームクライアントを使う説明のされ方は見たことも聞いたこともない。

それは、その仮説が間違えているからと言うよりも、いま主軸となっている層の教師と生徒の関係の中で、お互いにその情報を持っているのかいないのかだけだと思う。

MMORPGやFPSなどのオンラインゲームをする世代がスピリチュアル界に参入すれば、MMOモデルでの説明のほうが的を得ていると感じるので誰か言い出すと思う。

それと合わせて、『ゲームマスター意識』というありかたにも焦点を当てたい。

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ノンデュアリティにさらに深く気づくコラム

感覚タイプと思考タイプでは納得の仕方が異なる

思考タイプの人が感覚タイプの人の話に同調できずにフラストレーションが溜まるあの感じ。早くすぱっと要点を言ってくれない。もやっとする感覚。感覚タイプの人は共感や共鳴に全ぶりしているのであって、なにかを説明しようとして自分の話をしているわけではないという理解。思考タイプの人がその生態に気がついて歩み寄ると、事は自然に解決できる。

感覚タイプの人でも、素のノンデュアリティを理解している人など存在しなくて、単に素のノンデュアリティを体験した後に感じた「概念」談をおすそわけしているに過ぎず、素のノンデュアリティに対する自分の理解に関係しない。つまり、説明されているわけではないということ。体験談をシェアされているだけという感じ。説明されているのではなくて経験のシェアだから、それを理解しようとしても理解できずに終わる。聞きたいことが出てこずにわからないままになる。なのでそれをやめてみる。

それは感覚タイプの彼女が今日から上映開始された劇場版アニメを仲のいい友達と映画館に見に行き、興奮冷めやらぬまま帰ってきて楽しそうにその内容を思考タイプの彼氏に事細かに話す。それを根掘り葉掘り聞いて自分もその言葉にできない感覚を味わおうとしているかのようなさま。感覚タイプなので説明が抽象的で、中身はよくわからないけどなにか楽しかったり感動したんだなということだけは伝わるみたいな。

子供で例える場合には、泣いている理由を尋ねるシチュエーションで感覚的にうったえる場面をイメージしてもそんな感じ。うまく言葉に変換できなくてさらに泣くみたいな。ちなみに子供は本能タイプ。知性、感性、本能の大きく3タイプがある。

ノンデュアリティのスピーカーさんの説明では、感覚タイプが多すぎて思考タイプのぼくは理解できないことが多かった。

やってみてとか、気づいてみてとか言われても感覚タイプではないので説明不足でそれができない。実際に会って共鳴共振しないとつまりサットサンとかで無言の波動を受け取らないと難しいんじゃないかと感じる。感覚タイプの人は結局自分の言葉で説明できないから、言葉では説明できないとおっしゃっているのだけど、ノンデュアリティのスピーカー(ぼくが知っている)ほぼ全員がそういうタイプぽくて最後まで説明しきろうとはせずに、説明できないとか、理解できない、で説明を終わらせる。なのでノンデュアリティ=説明できないこという方程式が成り立っているかのような印象を受ける。しかし、正しくはそうではなかった。

あるところからはたしかに「説明できない」一点張りでいいのだけれど、思考タイプのぼくはモヤモヤして宙ぶらりんになった。初期の頃は2年間も虚無にもなるぐらいだった。

また、思考タイプでも、哲学や心の動き(心理学)からのアプローチを好むスピーカーさんもいらっしゃる。これもそのアプローチに興味や関心がなければいつまで立ってもちんぷんかんぷん。

いかに自分ルールで理解できるのか、マイルールに近い方言で解説してくれている人を見つけられるのかどうか、も学習コストカットに役立つ知恵。母数が多いならば共通のものを持つフィーリングの合う教え手に出会えるかもしれないが、母数がそうでもないならばなるたけ近い人を見つけるか、たくさん集めていいとこ取りするかしたほうが早いと思う。それかハイアーセルフに完全におまかせするか。


このページでは、思考タイプのぼくが思考的に理解可能なように『無限性』という視点から解説した。

無限性(=空性)を無視するかのような観点からお話をされるスピーカーさんは多い。人間性(=にげんせい)の観点が捨てきれずに持ったままお話をするのは、聞き手にとって馴染みのある観点だからとも思うには思うが、単純にずれているからとも思う。無限性、空性のロジックが欠落している。いいか悪いかではなくて。

思考タイプの人は、ノンデュアリティを理解可能なものに仮に説明してみるとだんだんわかってくると感じた。
コツは、


a. 仕組み上『非分離』は説明できなくて理解もできないものだけど、(非分離=概念に置き換えられない)
b. 仕組み上『分離』は説明できて理解できるものだから、(分離=概念に置き換えられる)

a. 非分離の『素のノンデュアリティそのもの』を理解しようとするのではなくて、
b. 分離では『ノンデュアリティの仮説明』までを理解することができるというポイント。

このポイントを押さえないと次には進めず思考がループする。

仮の説明。仮説までができる。結構いい線まで食い込んでいける。あるところから先は仕組み上無理。

別の例えで言うと、センサーがあるところまでは認識できて、センサーが無いところからは認識できない。
「空」に対するセンサーがないので空自体を認識することはできない。

それは空以降の範囲を認識できるセンサーを持つ存在の存在を示唆している。

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ノンデュアリティスピーカーに2種類いらっしゃる説明と第3案

1) 大和田菜穂さんを筆頭とした徹頭徹尾、素のノンデュアリティの立場から見えた見え方をシェアする方(大和田さんも初期と比べると言葉を尽くしてくれるようになった印象。2020年現在)と、

2) キャッチコピーとしてのノンデュアリティも交えながらその境界線がまだあやふやで聞き手に誤解を与え、それを解消しながらも説明しようとする方(大部分がこちら)と、今は大きく分けるとこの2パターンになる。

3) ぼくは上記(デュアリティの本質とは? 参照)のように、無限性という切り口からの説明でデュアリティが存在する理由みたいなものを発表していて、ノンデュアリティデュアリティが両立しているよという第3案を解説できている。なので、ぼくが知る範囲では今ノンデュアリティ界隈では全部で3案あると思う。どれがいいかではなくて、勉強熱心な人は全部知りたいでしょ?ということ。ぼくも知りたい。

3案全部に共通しているのは「ノンデュアリティを指している」ということで、それぞれどう違いがあるのかと言うと、

第1案はノンデュアリティから決して動かないプラン
第2案はノンデュアリティデュアリティを言ったり来たりするプラン
第3案はノンデュアリティベースでデュアリティ世界を企画/開発/コンサルするプラン

順に説明する。

混乱してノンデュアリティを解説している人の中で、ノンデュアリティにかすってもいなくて、一貫してデュアリティの中だけでの話をしているというプランもあるにはあるがここでは一切触れない。あと、菜穂さんの二匹目のどじょうみたいなコピペ系みたいな人も除外します。

ノンデュアリティは難しく捉えなければ難しくはないのでノンデュアリティにちゃんと着地しているプランは現状3つあるという話。(2020現在)。正しい間違いはないので、どのプランでもあってる。指しているものは同じ。

なぜ、色々なパターンが有り、なおかつ、だれも色々なパターンが有るという切り口で言わないのか疑問というか、疑問すら出てこなかったのは、盲点だったけれど、今わかったので書いておく。

ぼくは特に、大和田さんの独特すぎる一貫した姿勢にずっっっっと疑問を抱いていたのだけれど、それを解消することができないでいた。が、今ようやく糸口がつかめてきた。それを以下に示す。


第1案:ノンデュアリティから決して動かないプラン

素のノンデュアリティを語る人は、素のノンデュアリティは概念ではないから説明できないという態度をはじめからとっているのに対して、説明をしてくれるからその人達に聞き手がさらに質問をする。

彼らはそれに反応してその部分の説明をしてくれるので、聞き手は説明してくれるんだと思い込み、さらなる説明を期待しつつ、質問を繰り返していく。

しかし、彼らの態度は一貫していて、素のノンデュアリティは概念で説明できないというもの。

説明できないけれど、口から言葉が出てくるに任せて、条件反射のように答えている。しかも、言葉を変えたり比喩を使ったりせずに、同じ言葉を全く同じように繰り返しているという姿勢がぼくには驚きとともに、いらだちにもつながっていた。わかりやすい説明を期待しているからだった。

誰かがいて、話し合って答えを考えて発信しているというわけではなくて、もっと人間的ではない。

ぼくが思うのは、「私はいない。」とするその視点が既に人間的すぎて、さも、人間的な誰かがいる前提で物事を捉えようとするという思い込みから、素のノンデュアリティが指している元々なにもないよという領域の中でもさも、人間的なものがいないだけであろうとしているというポイントが落とし穴だということ。

全部なにもないよと言うのに、「人間的なものだけ」がないんだろうと解釈し、事実を認めない。

素のノンデュアリティのスピーカーさんたちは人間的な外装を取っ払っているから、その(素のノンデュアリティの)場にい続けられると言うのにだ。

すでに人間的な反応は聞かれたから答えるという質問期間にしか無いというか、それも人間的な生活の一部だから、人間的な反応が出てくるに任せていて抵抗しないというだけの話。

説明しようとしていないのは、わかる時が来ればわかるだけであって、わからないときはわからないだけであって、だれも知識の獲得者がいないと言う前提に立つから、説明などしたことがないという感じ。

聞かれて答えるのは反射であって、誰かがしようと思ってしているという行為者はいない。ということをはじめからずっと変わらずに言っている。徹頭徹尾。

ノンデュアリティ参入者が説明を求めて、そういう人に質問をしても、説明に答えてくれているということではなくて、聞かれたから答えるという人間的な反応を返しているに過ぎないということ。現象。

大和田さんというアイデンティティーを大和田さんと思われている眼の前にいる人物はほぼ所有していないので、人間としてみると言うよりも、人間性を会得している神がそこにいると捉えたほうがしっくり来るかも。その神というのも、神々しいイメージの何かではなくて、人間というローカルルールに自らを拘束していない、自由な視座を持つエキスパートという意味。

わかる時が来れば自然とわかるから説明しないという態度。これはたしかに楽だよね。自然だよね。ぼくもそうできたら一番いいのかもしれない。

でも本当に概念を全部外すのであれば、完全に沈黙し、その姿で持ってノンデュアリティを体現すると思うので、それじゃあ人にはまったく何も伝わらないから、言葉を駆使して話してくれるんだと思う。

ここまでが長年大和田さんなどの素のノンデュアリティだけにとどまる方を見て思っていた違和感についての解説と解決方法です。


第2案:ノンデュアリティデュアリティを言ったり来たりするプラン

次に、素のノンデュアリティの説明をしようともがいて言葉を駆使してくれている場合の解説。大抵は体験談とその時得た気付きを両方を話してくれてわかりやすい気がする。

しかし、問題は各スピーカーさんの個人的な体験を言葉に変換するときの語彙力というか、状況解説能力と言うか、概念構築/連想力がそれぞれ個性的で感情で伝えたいとしている。できているのがただの世間話や体験談までであり、先生が生徒に教えるという構図にまで発展していないと感じている。時代的にノンデュアリティ黎明期だからなのかな?とも感じるけど。

単純に、説明できないノンデュアリティを概念化するのを避けるとか、躊躇するとかいう気持ちがまだあるのかもしれない。概念は概念だからダメだという想い。その場合には、ノンデュアリティの概念を説明するのも案外と間違いではないとするアプローチもあっていいと捉えられれば、変わってくると感じている。

どちらにせよ、ノンデュアリティの輪への参加人数が年々増していき、論理的な思考が好きな人達が一定数ふえれば、そういう人たちも質問したいので、質問の幅も増えるという感じ。質問に合わせて回答も論理性を増していきそう。


端的に言うと、ノンデュアリティ参入者のほぼ全員がこの2種類目のパターン。明らかな理解のブレイクスルーが起きるまで、腑に落ちて納得できるまではみんな友達でこのパターン。つまりあなたもここ。スピーカーじゃなくても模索中ならば教師と生徒の関係になるのでここ。

ノンデュアリティをきれいに切り分けて、正しく切り分けて、扱ってみるというのはいかがでしょうか?(提案)まだ試してないなら案外スムーズにいくのかもしれない。


あと話は変わって、今知ったことでいうと、感情開放とか、心理的なブロックの解除とかのヒーリングで解消するような内容の悩みを、非分離を現すようなノンデュアリティのスピーカーさんに質問するというのを動画で目にした。これには驚いた。

悟りに興味や関心がある人だけがノンデュアリティを学ぶんだとばかり思っていたので、雑誌とかで特集をされるようなマーケティングの一環でノンデュアリティがヒーリングの一分野とか、日頃の悩みを解消する手段の一つだと思われているのかもしれないなと感じた。

悟りとかを求める以前のかなり前段階で躓いている場合には、ブロック解除とかのヒーリングのほうが断然いい気がするのはぼくだけなのかな?悟りというテーマが人生に登ってこない場合にはノンデュアリティは難しすぎてさらなる混乱を生むだけな気がする。

もしこのページを見ているあなたが、なにか日頃の悩み(感情のわだかまり、怒りやすい、傷つきやすい等)に悩んでおられるのであれば、ノンデュアリティ分野ではなくて、ヒーリング分野がおすすめ。

ヒーリングするところが自分にはもう無いという段になって初めて、ノンデュアリティが必要となるんじゃないかな?と個人的には感じます。個性それぞれなので自由ではある。

つまり、分離を学んだ後に来るのが、非分離の学び。ということ。
分離の概念(善悪概念、敵味方概念、等の2極性を赦すという統合の話/テーマ)=デュアリティの世界観をある程度マスターした後に、次はどうする?という段になって、非分離(もともと分離していない)というステージに着手できるかのようなイメージ。

ノンデュアリティスピーカーに対し、人生相談を持ちかけるというのはジャンル違いなのかもという認識。一概には言えないけれど。ぼくだったら明らかにレベル/次元違いの質問には、うまく答えられないかもしれない。心理に精通している人であれば、様々なお悩み相談にも適切な回答をくれそうだとは思うが、人生相談やお悩み相談と悟りの非二元とは異文化/異ジャンルだと思う。

しかし、入り口は自由なので、非二元を悟ってしまえば悩みの多くは一度に解消するというのもわかる気がするので、それを魂が望んでいるのかもしれない。ヒーリングとかのスピリチュアル分野はお金もかかるし、時間もかかるし、効果がはっきりしなさそうだなあとは感じている。ヒーリングジャンル無しでいきなり非二元に入るのは十分にありだなと感じる。今はそういう流れなのかもしれないというお話。

単にヒーリング分野も通ってきた人たちの過去こんなイベントがあってねえという飲み会の席の昔話に乗れないというだけだとも思う。

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第3案:ノンデュアリティベースでデュアリティ世界を企画/開発/コンサルするプラン

中庸な折衷案として、第3案がぼくの中で形作られてきた。以下、チャネリング混じりの文。同意するかしないかの話ではなくて、キュレーション(まとめ案)。

遠くの方で虫の鳴き声が聞こえたり、雨が降ったり風が吹いたりすることは「現象」または「自然現象」だとわかっている。という事実があるのに対し、自分が暮らして生きていくということは「自然現象」だと捉えられずに、あれやこれやの意味をくっつけたりして「自分がしている」または「自分で動かせるもの」だと捉えている。

また、身近すぎるものも自分がしているとは思っていなくて、自然に起こっていると感じている。食べ物が消化吸収排泄されたり、血液やリンパ液が流れたり、傷口を修復したり、細菌感染を防いだり、髪の毛や爪が生え変わったり、そういったものを自分で止めれるとは感じない(生理現象)。しかし、自分の感覚がある範囲だけは、何故か自分でしていると考えている。

また、「自分がしている」と思い込んでいるので、「周りの人もその人がしている」と思い込んでいる。そう言った生命。

そのポイントが実は事実とは異なるよ、という指摘がノンデュアリティでの見え方。事実は全部が全部「自然現象」だから自然現象に向かって「意味づけ」を行い、「リアルなこと」として感じ取っている。そこで大きな役割を担うのが「感覚」というもの。

もし、自分に「雨が降るときの感覚」があれば雨を降らしたりやませたりすることもその「自分でできること」だと勘違いすると感じる。

ある種、感覚と現象とを結びつけたことがヴァーチャルなリアリズムを経験する方法だったとも言える。※1

そして、その5感によって経験できるとしている仮想なリアリティーとは、ぼくたちが望むべくして手に入れたいとする現実現象であるという感じ。だからこそ、「現象」は変更が不可であり、「現象」は変更する必要が微塵もなくて、「現象」は悩む必要も全く無いという事実を表す。見えた「現象」がどんなに悲惨なものだったとしても、またはどんなに改善できそうなものだったとしても。※2 (その理由は以下に示す。)

ここについに5感以上のものが付いたとすると、第5感まででは経験できなかった経験の解釈と意味がもたらされたという感じ。※3 (例を示す)

それにより、さきほどの雲のたとえじゃ無いけれど、雨が振りそうなときの感覚として感じることができうるのであるとすれば、その感覚を駆使して雨を止められるかもしれないと、感じるという構造。実際には、感じたというところまでで止めるというのがキモ。(今体験している経験を即座に所有の概念に置き換え過ぎないという意味。不可抗力は許す。厳しくしない。)

5感はたんに経験を楽しむためのもの。その5感を駆使してなにかしようとするたぐいのものではなく。味わう。経験する。感じる。

現象とリアルは違っていて、「現象はあるがまんま」のことで、リアルというのはその現象に意味付けをすることだから、自由にすれば良いんだよということ。

意味づけしたいのにできないなんてリアルじゃないからね。自由にすれば良いんだから。

各かくそれぞれ真に自由に生きても良いんだよと、言う意味。※4 (これも解説する。)


※1 もうひとつ、「忘れる」というのも大切な要素。だけど今は感覚の話に焦点を向けている。

※2 ぼくが知っている中で今最もそれっぽい説明をされているのが「ぷあぷあ星人:μ(ミュー)」。μの説明の中で言われているところの、「自分宇宙」という説明が今のぼくにはしっくり来ている。μの言っていることが全て正しいかは知らない。

すでにあらかた基本設定済みである地球ゲーにログインしてそこで起こりうる自然現象を地球人としての目線で経験することで、「地球感覚」を学ぼうとしている。という意味付けでぼくはみているので、今経験したこの現象こそがまさにしたかったこと(地球ゲー)であるという認識。避けて通るなんてありえない事柄。これを今するから次にしたい方向に地球ゲーで獲得したボーナス経験値を持って先に進めるということ。概念の継承。
バシャールもおんなじこと言っている。ナオキマンショウとのコラボ本で。

※3 例えばの話、テレパシーという5感以外のものが使えることに気がつくと、チャネリングというものをしだしてチャネラーとなる。どこにチャンネルを合わせているのかなどの内容を一切省いて形式として捉えれば、そこで何をしているのかというと、新しい感覚の出現によって、同じ現象への別の意味付けを提案できるようなチャンスをゲットできたということ。これは感覚を増やすパターン。

5感だけで暮らしていると思いこんでいたときにはできなかったような切り口から現象を理解出来、起こっている現象は同じでも意味付けが異なることによって異なる複数の視座や解釈を持つに至る。平たく言えば知見が深まる、または別角度から体験できるようになる一種のギミックとも言えるかもしれない。

これに近い例を上げれば、自分が通っていた母校に自分の子供が通うとなると、自分が通っていたときとは違った視点(親目線)からその学校を見ることになり、新たな気付きがあるという感じ。

または、ヒーリングできているという感覚がない場合には、誰かの心と体の悩みを解決するためには、カウンセラーになるかもしれない。これは感覚を減らすパターン。見える範囲を狭めることで今度は逆に気がつけることがある。例えば、自分の中にあるネガティブな感情と言われているものを経験したいときには知覚を減らすと遭遇しやすくなる気もする。など。

※4 共通の場で起こっている一つの現象に対して、入力が同じだと何かで変化させない限り出力が全くおなじになる。つまり、ワンテレパシー文明になる。 だれかが樹の下に座ろうと感じると、惑星上のすべての個体が樹の下に座ろうと感じるというのが、ワンテレパシーだとすれば(仮定)、個性があるということがどれだけ重要なのかがわかると感じた。 日本というみんなで共通のフィールド設定をした場にログインしただけじゃなくて、「オリジナル」な感覚器官がキャッチしたシグナルに、「オリジナル」なカスタマイズをした意味付けをして「オリジナル」な現実を体験できている。これがデュアリティの意義/役割/効果の一つ。

それから、自由な意味付けをしていいよという意味や内訳はこんな感じ。

今している意味付けそのまんまで良いんだよという意味。意味付けを自由にしていいと聞いて真っ先に思い描くのが、今つけている意味付けが「悪いものだから変えよう。」とするもの。それならばそれでも構わないが、本質が何かというと、意味づけさえも思考さえも現象なので、現れて来る事で現象ではないものがないので、(元々あるものだけが不動の実相または空という意味なので、現れては消えるものは皆「識」と呼ばれるイマジネーションのことだという意味。)いましている意味付けも現バージョンの今この時この瞬間の自分のことだから、その意味付けで何も問題がないよというかんじ。

どんな否定的で思考ではダメだと感じていることでさえ、現れてきたその現象を100%抱きしめて構わないという意味。これは肯定していると言うよりも、ありのままの事実にただ明け渡しているという感じ。だから、何かに肯定されているという意味付けも全く無い。または、否定的な思考が現れたときにもそれに抵抗して肯定しようとも全くしない。否定がある時は否定があるだけ。この在り方がノンデュアリティベースということ。

それから、自由に生きていいよという意味や内訳はこんな感じ。

デュアリティベースの生き方から、ノンデュアリティベースの生き方にシフトしてもいいよということ。

自分がノンデュアリティベースで生きたいからといって、他の人もそうしてもらおうとしなくてもいいし、他の人も事実ベースで生きたいよというのであれば、それを教えても構わないよということ。決定権は各自にちゃんとある。

誰かの論を真に受け過ぎたりせずに、自分で決めればいいという感じ。自分で決められないならば、資料を集めて勉強して持論を持っても構わないということ。ただしその時に、事実ベースであるという捉え方で論を構築するということ。これがノンデュアリティベースでデュアリティ世界を企画/開発/コンサルする』という感じ。これは現象だから変更ができないということに矛盾すると思うけれど矛盾はしない。実際のところフィードバックすると現実が変わるというタイミングの話。この話は、また後々したい。

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虚無を回避する方法と虚無の解決方法

ノンデュアリティを学び始めると虚無になる場合がある。その仕組みと解決方法があるのでそれをシェアする。

「私はいない」にまつわる悩み

分離の意識、教えられたことに納得するエゴの意識上では、自分にできることというのはなにかすごいこと、使命、役割みたいなだれかに任命されるようなこととか、誰かがしていて羨ましく感じることを自分もしてみようとしてそれができないと落ち込むという、こういったトラウマがある。

それらはすべてエゴ特有の空想ベースの範囲内でのおままごとの話だという感じ。実際のところを見れていない。

自分にできることはある。というか、自分にできることしかしていない。今鼻で呼吸していると感じられることがあるのであれば、それはあなたにしかできなくて他の誰かがしているのを見ているわけではない。いま耳でなにか聞こえたのであれば、それはその時あなたにしかできないことであったのはまぎれもなく事実。だけど、それの何がすごいことなの?とエゴ(=自我)は感じる。価値役割等の大義が欲しい場合など、この程度のことだと不満であるという話。

ノンデュアリティでよく言われている「私はいない」というのは、デュアリティの立場でそのまま受け取ると虚無になる。

自分にできることがないという間違いに発展する。空想ベースではなくて事実ベースに切り替えて捉えられないと自暴自棄になる。

正しい意味での「自分にできることが何もない」というのは、個としてみるのをやめているということ。不在性のこと。不在性の立場からすれば、だれかさんという個はいませんので個が何かをしているという発想が湧いてこないというただそれだけのこと。

これを難しくさせている理由としては4つ挙げられる。

1) ネオアドヴァイタの意見を真に受けすぎている。
2) 常に四六時中自分がいないことこそが「私はいない」だと定義づけている。
3) 原点には私がいないというのに、どれが原点かまだつかめていない。
4) そもそもデュアリティベースでノンデュアリティの話を理解/納得しようとしている。

この4コンボがあればどうしても間違えるというのは全くそのとおり。あなたは正しい反応を示している生徒だということ。自分にできることがないという間違った結論に導いたあなたは100%正しい。オールライト。

間違っているかもしれないということは指摘された。では、どこがどう間違っているのだろう。

1) ネオアドヴァイタというのは徹頭徹尾ノンデュアリティの気づきの立場から動かないプランなので、その立場を取り続けたいのかどうか、自分にしっくり来るのかどうかはそれぞれのことなので、自分で決められる。(ノンデュアリティスピーカーに2種類いらっしゃる説明と第3案を参照)ただいま3プランあるので、第1プランからの変更も可能。プランを比較して自分にあったものを選ぼう。

2) 私というものは私がいるんだという思いがあるときにだけ正しく正常にあって機能してくれていて、その他のときには引っ込んでしゃしゃり出てこないのでいないと言うことが事実だよという感じ。呼んだら来てくれる出前と同じ。呼んでもいないのに四六時中出前の人に付きまとわれたら迷惑でしょうというレベルのこと。呼んでいないときにはいないのが正常。これは変更不可の事実

3) a)常に私というなにかがあるのではなくて、不要なときには無いよねということと、b)原点には私というものは無いよという、この2つの意味で私はいないと言っているという感じ。

4) そもそもノンデュアリティの立場はデュアリティの立場と見え方が異なるので、同じ位置から見たければ同じ位置に立つ必要がある。まずはじめにデュアリティの立場を取るというルールをもっと緩めてノンデュアリティの世界線に触れてみることが大切なこと。ノンデュアリティの立場に完全に一致しなければノンデュアリティがなにを言っているのかは理解できないので、今はデュアリティの立場にいるということを自分にお知らせしてくれているというだけのことなので悩みすぎる必要もないよということ。順繰りわかるよ。焦らないで大丈夫。わからなくても実は順調、後からわかってくる。安心しておまかせでOK。

「意味がない」「無意味」にまつわる悩み

ノンデュアリティでたまに言われる「意味がない」「無意味」という意味を捉え違いすると、虚無になる場合がある。

自分が頑張ってきたという思いが強いほど、それが崩れ去ったと関連付けをして悲愴を感じ、虚無になる。脱力する。立ち上がれなくなる。

今の現実に悩んでいたり、抑圧していたりすると、小さな希望の芽が摘み取られ、虚無(意味付けエラー)になりそのまま死にたくなる。自己解決できないまたは自己解決に時間の要する難問に手も足も出せなくなり投げ出す。脱落する。

それらの根本的な仕組みは、既存の概念Aを、今教えられた概念Bに変更したということ。それで概念Bが自分の期待していたものではないのでがっかりしたという構造。

意味付けという方がより適切だとも感じる。意味付けAを意味付けBに置き換えたときに論理破綻した。それでこのテーマでは今回、虚無というエラー症状がたまたま出たという感じ。

これは空想ベースであるデュアリティの立場だからできること。

ノンデュアリティスピーカーである事実ベースの人が、その現在の立場から見えている世界感をシェアするときに、空想ベースに与える影響を無考慮で発言をした場合に、

空想ベースの人には事実ベースの人に在るような基本合意がないので、ある言葉に対して自由な連想で独自に意味を組み立てる、という構造に対する知性がないと、聞き手にエラーが発生して虚無の症状を発生させていることに気が付かないのでフォローをしない場合がある。

簡単に言えば、空想ベースの立場では意味付けの自由がある。事実ベースの立場では意味付けに自由がない。(ざっくり言えば)

もし、事実ベースの人が使う「無意味」という言葉をなんの配慮もなく使った場合、空想ベースの立場にいる人からしてみると、三者三様の独自の意味付けを行う。その中で恐れベースの意味付けをしたときに自己否定が強まる場合がある。

つまり、悪く捉える。良い悪いの二極概念を使う。なので、良い悪いの価値判断をしている前提でフォローをしないと、空想Aが悪い空想Bに変わるだけとなる。

これがノンデュアリティスピーカーに備えられる素養です。

平たく言えば、発信する側で虚無を回避する方法は、「空想ベースに歩み寄りなさい」ということ。かなりユニークなロマンあふれた独自な意味付けをしていることがある。というか絶対にそう。それを見越してフォローなり何なりをするのが良いとぼくは思っている。

なので、今無意味という概念に悩んでおられる場合には、そのまま悩み続けても自力では気づくのに時間がかかっているだけなので、一度悩むようなそんな概念を信仰するのをやめてみる、取り外してみることがおすすめ。一旦初期化してみる。その後、「ノンデュアリティの効果効能」という章から再スタートしてみるのが良いと思う。自力で悩み続けるのであれば自力をやめてみる、正解を教えてくれているところに実際に行ってみる。正解に直に触れる。先を焦りすぎるのをやめるてみる。

虚無の役割

虚無になることに今のぼくの立場から言える意味を与えるとすれば以下のようになる。

解決方法の前に、なぜそれを経験するのかの謎を答えると、もっとも論理性が高いのはその経験をしたかったからで、した後のタームでその経験が活かせるからだということ。これを概念の継承という。

意味付けエラーを経験することで、意味付けという行為の矛盾を獲得し、体感し、会得することで、正規ルートでの学習カリキュラムを進行している真っ最中であるということ。

死にたいと思うほどの強い絶望感はぼくは何度も経験したけど、カリキュラムを超える段になり、その知性が集まってきてより大きな枠組みを認めることができたとかんじている。

つまり、パズルのピースのような知性が集まった後、元々あった大きな枠組みに新人として参入する権利が在るのだという認識を自分の内側から感じられたというかんじ。(振り返るとという意味で)

感動は概念ではなくて経験するジャンル。それと同じように虚無も経験で学ぶジャンル。本を100冊呼んでも虚無を実際に経験したとは言えない。

無理に頑張って虚無を回避しようとしなくてもいい。経験として虚無とはどんな感じなのかを経験するのもありだという話。

解決方法がわからないので独自に頑張って回答を探したけど、解決に2年かかった虚無という現象はすべてのカリキュラムを全うするために2年かけたのかもしれないという話。そのおかげで、今ここにいるとも思えるから不思議。

何でもそうだけど、虚無もそれを体験するビフォーアフターでは捉え方が変わる。すべての情報が手に入ればそれは得難い経験になる。ぼくの中にはその情報がある。

なんでもそうだけど、虚無になることも良い悪いでは言えないと言うか、今見える範囲では悪く捉えて改善してほしいと願ってさらに思考エラーのループになっているということ。数年たってみればその経験を活かせるということがわかる。

まとめれば、

虚無になるとその後の経験として活用できるので実際になってみるのもありだとわかっていればOK。

虚無になるのはいいけど、そこから抜け出たい場合には、意味付けを外すというのを本当にやってみるという感じ。後付けの意味をすべて一旦白紙にする。実際にしてみる。意味付けをしないという感覚を得る。常に虚無になっているわけではなくて、虚無を思い出したときにだけ虚無的になっているだけだと気がつければ早そう。

一言で言えば、抵抗せずに感じて味わいつつ生きれば、そのバトンをゲットできる。勇敢な経験のチャンスの最中だと言うこと。そういうチャンスはそうそうないかも。

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人間性から非人間性への『意識のストーリー』

意識のストーリーには、美しくつながる秩序がある。

人間性二元性デュアリティ」と、
非人間性非二元性ノンデュアリティ」※1

※1 非人間性とは非人道的という意味ではなく、先天的に空性があるということを指し、人間であるという捉え方は後天的に付与した刷り込みだということ。拡張した人の概念の範囲。

にげんせい人間性」のことで「ひにげんせい人間性からの継承と脱却」が含まれていると思っている。

人間性に赦される大きなポイントの一つにエゴ=自由意志というものがあり、それを自ら手放せる領域にまで意識の拡大が起こっているということを自覚するという雰囲気で、非人間性への目覚めと非人間的な意識への気づき/シェア/目覚めが行われるとしている。

非人間性というのは人間性への肯定性も否定性も含まず、どちらかと言うと事実を認めてエッセンスを受け継いでいこうとした中立的な流れだと感じる。中庸。否定しない。赦すというのは認めて明け渡すという意味も込められている。認めて明け渡せるまでに展開しつつあるよねという流れがポイントだというかんじ。

分離の世界観から非分離の世界観に移る時のカルチャーショックの事を、一瞥ということもある。(もっと下に書く。)

逆に、非分離の世界観から分離の世界観に行くときにもカルチャーショックがある。

訳あって人間性を学ぶ意欲のある存在は多いと思う。(高次元が優れていて良くて、低次元が未熟で劣っているという意味付けは無くて、構造的な話。タワーマンションの1階とか20階という話。非分離。カースト制はないと思ってる。)

その場合には、人間性を1から学んだとしてその後に非人間性を学ぶ。人間性二元性を学ぶ意義は、赦しを学べる事で、非人間性非二元性を学ぶ意義は赦しという無限性へのチケットをゲッツした後、それを活用できるから。無限の存在という意味が腑に落ちている。ということ。(あくまでぼく個人の意見。意見や纏め方はそれぞれ自由であっていい。そこが面白味につながるから。)

無限の意識の冒険譚の中にある、人間性とはこういったものという美しさのある物語を決め、その中に入りこみ熱中して、その後、それを手放してもとに戻るというストーリー。


" 引用

神から神性を学ぶスクール、愛の星地球。
霊から霊性を学び、
宇宙から宇宙性を学び、
地球から地球性を学び、
人間から人間性を学ぶ、生きた図書館。

’’ 引用元:霊性と神性の対比

チャネリング「エゴは輝き。」

ノンデュアリティもどきとは? A.『空想ベースからお引越し中』

よくある注意点として、ノンデュアリティもどきという反面教師なものもある。

素の現象がここにあるよね、というのがノンデュアリティの立場だけど、その素の現象というのを、デュアリティ空想ベースの立場では『自分が作り上げた※1イメージ状の素の現象』として認識したがる。がそれは間違いだと気づけるまでは、はじめはなかなか認識しにくい。それでわかりかけの状態の人が、学習の一環としてところどころ混乱しつつも、ノンデュアリティもどきを演出している。ノンデュアリティとはこういうもの、という理解をトライアンドエラーで導き出そうとしている現象。良い悪いはない。

※1 自分に都合の良い/または逆に自分に都合の悪い独自の投影。被害者になりたい向きのある人は卑下したねじれた自己解釈を行う場合がある。

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『無限』を相手にする

無限を相手にすると言うそれだけのことで、価値が一気に上昇する。または元の価値に戻る。つまり価値がない。価値で表せない。表現できない価値。あまりにもすごい物の価値を測るスケールがないので測れない。小さなものさしでは価値付けエラーが起こっている。

無限を相手にすると言うただそれだけのことで、途端に今目の前にいるその人が無限の1つのピース、無くてはならない存在、無くてはならない何々になる。今目の前にいるその人の尊さやありがたさを実感できる。なぜなら今まさに無限であると言う豊かさの表れがその人の中を通って現れていることをただ見ていることに気がついているから。

無限の中の1つだからちっぽけだ、ではなくて、無限の中にその1つとして現れていると言うことがどれほど凄いことか、稀なことか、天文学的な数字と言うのでも少な過ぎる言い切れないほどの尊さ、凄さ、スケールのでかさ、はかなさ、それでいて普通であると言う。

「無限」を相手にすると言うのは、「全体」を相手にするとかよりも途方もないものと言う意味が強く含まれていると感じるのでぼくは好んで使っている。端から端まですべて知っている存在などいない。なぜなら無限だから。

無限を相手にするというのは、無限に帰るということ。無限ベースになるという感じ。

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否定しない

無限性が腑に落ちてくると、『否定』という行為が働けなくなってくる。

否定しない/できない。否定をする根拠がまったく無い。何を根拠としてそういう否定ができるのか不思議に思う。

否定をしたいのならば定義なり根拠なりと言う前準備が必要になる。あらかじめ決めてある荷物を持ち歩いていないから、荷物と自己を同一化していないから、否定するという努力や前提をその都度設定するとうまくできることになる。

特に不要なものは何も持ち歩かない。しかし、必要なものはちゃんと持っていく。だから否定したい時にはその場で否定材料を揃える。

否定するためにはその現場で使われている通念を調べ上げ、その通念上の価値基準を拾い集め、善悪の定義を絞って見て、ようやく顕微鏡で見えるかのような狭い範囲に落とし込んで否定が見えてくるかの確認作業を始める。デフォルト設定では否定ができないので、オプション設定で任意に必要があれば手順を踏みつつ可能になる。

例えて言うなら、絵を書くときに書いた絵を否定する黒を部分的に塗りたいみたいな場合。(黒色に否定とかの意味が備わるという意味ではない。この例え話では黒色に与えた役割ということ。)

否定しないとは、制限のない思考のこと/呼び名。どれが今制限のある思考なのかがわかっているから、制限のない自由さを再選択するので、いちいち制限のある思考を手放す。


逆に言うと、「否定が出てきた」時なにが行われているのかと言うと、

誰の手も借りないで、最速に瞬間的に教えてくれている、『自浄作用のサイン』だという感じ。素晴らしい精度/速度での置き換わることのできない(そんなものが不要な)センサー群。一番役に立つ素敵なものを実は最初から持っているという根拠に当たる部分。

出来事がどうだという出来事の正負/正誤の判断のレベルの話ではなくて、今自分にどういう反応が起こっているのかだけの範囲のシグナルということ。ここがキモ。ここが不十分な捉え方であれば、苦闘を繰り返すことになり、解決するということがない。

否定の瞬間的なシグナル/パルスを、継続的なエゴの餌にしないという範囲のこと。エゴが活発化するための滋養/栄養素にする必要もないよという意味。自我(エゴ)とご自分の本意/真意とを分けて捉えられると、エゴのシャッフルに巻き込まれなくなって強くなれる。発想がゆらぎにくくなる。


ここまでが否定できたとき、否定に成功したとき、否定が現れたときの捉え方と根拠と言うか、心構えを示した。

否定が出てきたときは、あるがまんまを許せずに抵抗しているという見え方。(それを引き金として主義のバトルを始めると、好戦性が現れてくる場合も多い。が、そうしないというポイントは既に指摘したとおり。だからどうするというのも、いちいち制限のある思考を手放す。というふうに答えてある。)

肯定が出てきたときは、重み付けをしている、見たい部分にフォーカスできるように調整している。

どちらも、中立性を省くことで見たいようにできる。という自由さを発揮するという場面のこと。

否定を失ってしまった

否定をしてはいけないことだから、否定しません。と言う名のテンプレートではない。キャッチコピー、スローガン、憲章、戒律、規律、訓、セールストーク、ポジショントークのことでもない。否定しないことのほうが良いことだからという比較からくる善悪判定と罪の意識と罰が怖いからという回避等とも無関係の範囲のこと。

否定しないというのは、(元々そうである。善悪二元性を得る以前のやり方であった、)否定するというスキル/能力がOFFになってしまった、ということ。能力を失効してしまった。失った。持っていた(と思っていた)能力が発動しなくなってしまった。という欠落の事。

しかし、それによって無限性だとか、無条件だとかそういう解釈の仕方に目が覚めたということ。別に「否定」しなくてもその能力がなくなってしまっても、やれることは多いし、別に困りもしないよね。という事。

唯一否定をしたいときにだけは困るかもしれないが、それ以外の普通に暮らす分には特に支障もないし、むしろ、自由にのびのびと暮らせて事足りているし、感謝しかないなあ、みたいな。

否定が常にONになっているときには、かぎ廻り、探り合い、掘り合い、探し回って見つけては、「とったど~」と歓声を上げて、いざ否定合戦の関ヶ原の戦いをしはじめていた。マウントを取ることに忙しく、なりふり構わず先手必勝で相手の痛いところをつくことが喜び/エクスタシーとまでなる。

または、自己を守るために、見たくないものを見ないために、まくし立て、自分に潔白無罪放免を言い渡すために抜かり無く反発している。ときには憤怒を表現し、威圧し、威嚇することで大きく見せ、たくましく見せ、相手の心を折ろうとも躍起に必死になる。ある場面から見えた正論を持ち、それを振り上げ、相手の顔面に叩きつける、そういったエゴ人生のストーリー。

それを失ってしまった。ある意味躍動感があり楽しかったのだけれど、好戦性が強い場合にはスリルもあり相手を打ち負かすことに関して策略を巡らせる醍醐味もあったりもしたのだが、捨ててしまった。というか要らなくなったと言うか、ふさわしくないと思うに至る。

それを持ったままでは、無限性というものがわけわからない物と感じるので、外してみることが必要で、外してみたら何だこちらのほうが良いじゃんと気がついたみたいな感じ。やってみる以前は半信半疑でも、やってみたらすんなりこっちのほうがいいし、とわかったということ。何より楽。

否定というツールが基本的スタンスから、こぼれ落ちて、握っていた手からスルリと抜け落ちてしまって、そのまま。べつに落ちたものを探しもしないし、拾いもしなかったのでそのまま消えた、みたいな感じ。無くそうとして投げ飛ばしたりは一度もしてないという感じ。失効。賞味期限切れ。ライセンス切れ。

曇りなき眼の無垢でピュアで微笑みをたたえた神の愛の伝道者

基本スタンスからは否定という成分が抜けているとは感じているけれど、完全に否定をしない「曇りなき眼の無垢でピュアで微笑みをたたえた神の愛の伝道者」みたいになるということではもちろんない。

むしろ、俗なものから覚めていると言うか、距離をとっているとか、俗なものに触れていないので、自分の事だけをしっかりと見ていて、その自分の事というのが、無限性のことなので、範囲が一番広そうだ。ということ。

否定はしょっちゅう出てくる。※1 でもそのときの反応の仕方が否定していないので、否定という成分のない否定。ただの枠とか呼び方で言う慣れば「否定」というジャンルにはなるかもしれないなあという意味での否定。潰そうとしていない否定。それを活かそうとしている否定。みたいな感じ。捉えようとしている最中の否定感。相容れなさの表現と取り込むための挑戦権みたいなこと。※1 なにしろ無限を相手にしているので異文化に対する軽い拒否反応は都度でてくる。つまり異文化に触れるチャンスや回数が多め。

変なものを見ると、一旦は否定感が湧き上がってくる、しかし、それと同時に、その出来事を持ち帰って、時間を掛けて再吟味をして咀嚼してみると、何かしら今の自分に消化吸収されて自分の一部に収まる、みたいな流れで捉えている。

「否定」ツールとして見ていて飲み込まれたり、踊らされたりはしていないという事。仕組みを把握して、使っているという感じ。包丁やまな板とおんなじツール群。

しかし、言葉上では普及している否定語に当たる言葉を普通に使用して、含めている意味に「否定」成分を含めずに抜いて使う場合が多いので、「良いも悪いもない」というコメントをいちいち入れないと、聞き手は否定されているんだと受け取ってしまうとわかっているので、そういうフォローはする。

否定するという能力が必要な人達はたくさんいるし、ぼくもそうだったので、そういう文化や能力、チャンス、機会は一切否定する余地が生まれていない。むしろ肯定している。なので、良いも悪いもないよとフォローを入れるというスタンスを取っている。

そもそも、無限を相手にしているので、否定というのはないけれど、否定というのも(すべての)一部なのでそれも否定していない。あるものすべてまるごとひとつも否定していないというのがぼくの理想。完全肯定。最終定理。

彼も頑張ってやってくれています

エゴが強過ぎて厄介で自分ではどうしようもないと否定を感じる場合には、エゴを漫画のキャラクターのように捉えて、「彼も頑張ってやってくれています。」や「彼も時にはくじけることもあるけど、強くあろうともがいています。」とかの、簡易的な線引きを引くと良いかもしれない。

漫画:ワールドトリガーのお子様『ようたろう』のキャラのように捉えると面白いと思う。

または、「エゴよ、静まり給え!」と思考で言うとぼくの場合にはエゴがでしゃばるのをやめるので案外便利な文言として使う場面がある。ちなみに、エゴは消えないし、消す必要もそれほど気にしていないかもしれない。エゴ=センシティブな心=怖がる気持ちを失ってしまうというのは、まだぼくには早いかもしれない。

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悟りとは? A.『原則重視』

悟りとはこういうものという「案」の多さ

1) 仏教で言うところの悟り(目覚めた人という意味の悟り)
2) ノンデュアリティで言うところの悟り(非分離=元々分離は存在していないと悟る)
3) ワンネスで言うところの悟り(非分離=全ては自分だと悟る)
4) 知恵とか経験則で言うところの悟り(これ以上は危険だと悟る。知れば知るほど何も知らないと悟る。)...etc

参考:「悟りってどんな状態?」悟った50人に心理学的手法で詳しく聞いてみた結果とは

上のリンクを読むと、肯定感が増し、肯定しきるともう肯定する必要がなくなったので、肯定というツールがスペースシャトルから切り離される感じ。自己充足。上のサンプルでは、論文を書くための観察者の視点が、そもそも幸せ、充足感、ウェルビーイングの理由を求める、という信念のもと偏りのある出自からアプローチしているので、やはり出た結果は充足感というものさしでの結果となる。悟りを充足感と関連付けしている。「コンプレックスの解消を行いたいので悟りと関連付けてリサーチしてみた!」という事。

YouTubeでも簡単に悟りの話を聞ける時代になった。各スピーカーさんの過去の体験と歩んできた道がそれぞれの個人特有なので、抽象的な説明と個人的な体感の説明を聞き続けていると、悟りとはなんだかわかったようでわからない曖昧な感じに思える。話し手の方の習熟度が統一されていない。しかし、シェアすることが大切要なのでそれはそれでありがたい。

悟りというのを

a. 「思いやりや悟性や慈愛や理解、他の存在をいたわる心、真心、愛、喜び、至福」という観念や感情と結びつけて、深い瞑想の後に獲得したかのように驚きと感謝を伴って「悟りを開いた」と言うと思い込んでいる場合や、
b. 積年の願いや心理やトラウマの解消を目的とする自己実現ができたかできないのかを悟ったとか悟れていないという場合や、
c. 仏教など宗教上の教えに納得するのかしないのかを悟りだ、

とか言うから混乱するのだと思うが、悟りとはそういう条件とは無縁の極シンプルな仕組みのこと。=差はない。=非分離

素に悟り、シンプルに悟りと言わずに、悟りというワードを悟りとは無関係なロマン(自分が行ったことが愛おしいと感じているから)や事実とを組み合わせて使用しているから、悟りにバリエーションが生まれていると感じた。悟りを「時系列」の中で捉えようとしていたり、「獲得する概念」としていることでも余分な意味付けが発生している。悟りという名称にいろいろな方向をくっつけすぎて大きなワードにしすぎているので、何を指しているのかわからなくなる。その余分な脂肪を剥ぐ。

引用:真理とは?

" 引用

真理は何も現さない。
何か現しているのであれば、それは真理ではなく、真理ではないということを表している。
真理は何も現さないから、強いて言うなれば何も現さないことで真理を現していることを表している。

分離していないのを表すことは、何も現さないということによってのみ、逆に言うと表しているということになる。
つまり、分離していることを表しているのは、何か対象を識別出来る個性と現した時になる、これにより、何か現す事はイコール分離を生み出したことになり、何か現さないことにより非分離を現したことになっている。

’’ 引用元:真理とは?


そもそも深い知恵とか叡智等の永遠の真理に属するものは普遍性がある。グローバルルールなのでローカル設定に依存しない。

ぼくが思うに、悟りとははっきりと線引きできる、定義できる概念。曖昧さのまったくないとてもシンプルな気づき。差取り=悟り。

「原点に戻ると、差がなくなる」=「分離がなくなる」=「非分離」=「元々差がない」=「元々分離がない」=「差なんかない」=「あると思っていた差がなかったと悟る」


悟りの定義=『分離ということがないということに気がついた』というのを悟りと呼ぶ。

悟りの定義はこれだけ。また、悟りは特別なことでもない。

『あるがままそのまま』、『今のままで完璧だから変えなくていい』← 結果としてこういう定義でもOK。

具体的には、日々の暮らしの中で稀にあるネガティブキャンペーンもあってよしとすること。お怒りモード※1、おふざけモード、おたわむれモード、などの各種情緒モードもあっても良いと決める。ガチではなくて緩めた捉え方にするときつくしまった結び目が解ける。(※1 激おこぷんぷん丸、激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム、ぷりぷりモード、でもあり)


悟りの定義=非分離を認めたのが悟り。と同時に分離を認めたのも悟り。根本にある原則を感じ取ることが悟りと呼ばれていること。(←だって。今教えてもらいました。)

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悟りの深まりとは?

一瞥からパラドクスの解消まで期間が長い。それを深まりと呼んでいるみたい。以下の流れを参照。

1) 「悟りの一瞥」というのは、単に分離の概念で生きている人が初めて非分離というものに触れてショートしたという感じ。思っていた構成が全く違ったという事実に愕然とするという様。ルールクラッシュ。既知の価値観が機能しないものだとわかってしまう。一瞥という洗礼を経ずに履修する場合も普通にあっていい。徐々に目覚めるので徐々派というらしい。ぼくも徐々派だった。

2) 新ルールにすぐには納得がいかず、分離の意識のままであれやこれやと思考し悩みぬくというのが、「一瞥後のダンス」と言われているもの。何度も何度も思考の上でどちらが正しいのか間違っているのかを吟味していく作業のこと。

3) ダンスも終盤に差し掛かり、もう踊る気力も枯れ果てる頃、諦める気持ちが勝ってくる。これを「サレンダー」(手放す)と言う。分離なの?非分離なの?もうどっちでもいいから答えを教えてほしい、となる。

4) 知りたかった答えは非分離なので、非分離が答え。あとは納得するまで、非分離について学習し、学んでいく。ここを「深まり」と呼んでいる人も中にはいるかもしれない。期間が長いので。

5) 非分離が答えなのは納得済み、しかし、分離があり続けるのはなぜ?「パラドクスを解消しだす。」

6) 明らかなブレイクスルーが起こる。つまりカリキュラムの修了。「パラドクスが解ける。」非分離分離もどちらもそれぞれあってOKがちゃんと分かる。これからどう普通の現実を生きようか。結局わからない。なぜかといえば、非分離未知の領域だから。自分らしくあるだけ。あるがままあるだけ。なったようになるだけ。

7) 自分を輝かせたい。事実ベースでコラボレーションする。」自然にレギュレーションが合うからコラボしやすい。自分の能力を出し惜しみなく放出することを喜びと感じる。非分離がベースとなっている。


悟りの定義は『非分離』というこれだけのことなので、ハードルは低め。とてもシンプルで深まるも深まらないもない。

更に進みたい人だけその先に進めばいいのであって、一番最後の最後まで行かない限り悟りではないみたいな印象を与えるすべての話は、シンプルな理解を阻害する。悟りを難解な困難なものみたいに捉えやすくさせ、高い障壁を生む。

ぼく個人的には悟りは自覚の話なので、一瞥した時とか非分離が元々だとわかった時点で悟りだとは思う。なのでかなり色んな人は既に悟っている。(上の一覧では4番ぐらい。)

しかしぼくは、魂の時点で悟っていない人なんかいないとも感じている。だから、悟りは無いというか、一応はあるけれど、、、みたいなあやふやな感じ。規定はできるし、線引のあっちとこっちでは見える世界観に違いがあるのははっきりとしているけれど。求めていたときには価値を感じて、求めが終わっているときには、あのときの情熱はどこに消えたのだろうと懐かしむかのような感覚。悟りを人生の中でチャレンジしたいテーマに据えていない。もう終わった話。完了。ゴールではない。一応のゴール、つまり次に進むためのベンチマーク/基準点。

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ワンネスとノンデュアリティの違い

スピリチュアリティーにお決まりのよくある話に、特殊な経験談というのがある。

ワンネス体験談と一瞥体験談の2つの柱がよく言われている。一瞥体験談は悟り体験談とも言う。

ワンネス体験談は「見るもの全てが自分にしか感じられなくなる」という内容。ジュリアン・シャムルワさんが最も詳しい。宇宙人がどうのと言う導入部はカットで構いません。

悟り体験談は「自分がいないと言うことを経験する」という内容。日本人のスピーカーさんで話されている方は結構いらっしゃる印象。金森将さん、溝口あゆかさん、まみともさん、じゅんころさん、地球ひろしさん、中野真作さんなどなど多数。

個人的にはワンネス体験の情報がまだ少なくて結論が出せない。ワンネスとノンデュアリティの違いは今勉強中です。『リポーターの例え』のように、タイムラインで情報解禁と情報統合が交互に起こる。

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意識の社会科見学とは?

体験のシェアである体験談だと自分もいつかそれをしてみたいという願いが強くなってどうしたらそうなれるのか?に意識を使う。体験談を聞くと、自分にもそれが起こるかもしれないと期待を寄せる。期待値を乗せて重み付けをすると一向に起こる気配のない体験に混乱が生じる。体験が起こらない私はダメ、私なんかまだまだなんだわ、または逆もあって、私は一瞥してるから偉い、わかっている、一瞥していないあなたはまだまだだ、みたいな。

なので、体験を見学という言葉に置き換えたほうが過剰な期待値が外れてなんかしっくり来た。単なる「社会科見学」。重み付け一切なし。シンプル。プレミア感を取り払い落差を取る。優越感や劣等感の排斥。

以下のYouTube動画は、とてもめずらしいタイプのシェアだと思います。一度聞いてみてください。一人の人が3種類の特別な見学をして、それぞれの特徴をリポートしていらっしゃいます。

動画では全てをワンネス体験と呼んでいますが、名前が渋滞してる混乱をほどくため、3つの名称に振り分けます。


○ 3つのワンネス体験とそれらを統合する大きな気づき(悟り) スピTV出演ダイジェスト版


[1番目] 4:55 (創造見学)

[2番目] 10:45 (ワンネス見学)

[3番目] 14:22 (ノンデュアリティ見学)

24:15 (ぞうの例え)


1 「創造見学」(仮称) についてはまだぼくはよく知りません。今後の情報提供に期待。

2 「ワンネス見学」についてはジュリアン・シャムルワさんの方もまた詳しいのでおすすめ。その中でもワンネスに段階があるとか、思考してしまうと終わるとかも興味深い。

3 「ノンデュアリティ見学」については、上記の各スピーカーさんのYouTube動画を参照。しかし、基本的にはノンデュアリティ見学というのは「わたしはいない」という不在性に出会って衝撃を受けたという内容を指しているだけなので、いろいろな人の経験談の吟味は不要/時間のロスにつながる。

なぜなら、a)自我の重み付けがそれぞれ個性的で、それぞれの立場に理解が及ばないから。100人100様の反応がある。また、b)それは結局の所、入口付近でしか無いから。お店の入口付近を歩き回っていないで中に入ろう。(次に進むという意味。商品を手にとったり、試着したりというショッピングが待っている。看板広告に目が止まり、お店の前で足が止まっているという状況。)

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リポーターの例えとは? A.『順次展開』

リポーターの例えでは、どれが真理かではない。順次展開。これは、テレビでVTRを流した後、スタジオに戻してタレントにそのVTRの感想を聞くときに、VTRのはじめから丁寧に一つ一つの場面を区切って話してもらうかのような有様。誰々さんにどの場面のコメントを言ってほしいかのカンペを出しているという感じ。

キッチンカーに行列ができていて、並ぶお客さんにリポーターがお話を伺うという場面では、ある出来事(現象)に対する様々な立場の違いから見えたもの経験の違いがあって、それを番組としてひとつにまとめ、お茶の間にシェアしている。という流れがある。

・並んでいる人(何で知りましたか?何がお目当て?どのくらい並んでいますか?など)
・購入した人(何を買いましたか?お味は?など)
・買ってもらった子供(おいしい?など)
・遠巻きに見ている人(興味がありますか?街頭インタビューなど)
・キッチンカーで作っている人(反響はどうですか?おすすめはなんですか?など)
・SNS(いくつかピックアップした口コミを紹介など)
・経営者(経営ビジョンはなんですか?など)

などなどのVTR展開後、

・スタジオでは、司会者が一言コメントし、
・アナウンサーに振って一言コメントしてもらい、
・カンペが出てタレントが順番にそれぞれの場面に対するコメントを言う。

経験のそれぞれは同じテーマを別々の立場から見たという感じで、どれもが正解。

真理と呼ぶ「それ」も結局は立場の異なる存在のそれぞれの見え方を、順番にスポットライトを当てて発表の場を与えあっているかのよう。

「ぞうの例え」は物事を多角的に捉え、多次元から表現しているから表現は違っても指しているものは同じ、という風なたとえ。

「リポーターの例え」では、順次展開でそれぞれの訳者にマイクを向けて、その立場から見えた景色を一言プレゼンしてもらう流れ。

付け加えると、そういうリポートがタイムラインで順次展開されているという感じ。アイフォンが出た後でない限り、ポケモンGOはどうしたって出ることはない、みたいに秩序がある。または、ポケモンGOを出したいのであれば、それに見合うアイフォンを出すことになる。タイムライン。仕込み。

なので、私の思っているのと違うと思う場合、自分の思っているものを発信してみてください。「私の思うもの」を引き出すためのそのインプットなのだから。次はあなたがアウトプットする番。

これはある意味、記憶だけでマイケル・ジャクソンの超うまい似顔絵を書くようなもの。記憶は美化されがち、もっとイケメンだったとか、もっとブサメンだったとか、それぞれ記憶を持ち寄ってぶつくさ言う共同アートのようなもの。アートが大きければ大きいほど、作業は手分けして進める。これも例え。

チャネリング:「なんでこう言ったことがあるのかわかっているの?」
チャネリング:「無限の存在たちをタイムライン上に整列させるためだよ!」
(それぞれの無限の存在たちに活躍の場を用意している、という意)

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5つのソースが表す、ワンネスとノンデュアリティの位置付け

ソース1 : 「悟りってどんな状態?」悟った50人に心理学的手法で詳しく聞いてみた結果とは
ソース2 : "私(=自分)はいない" と、 "私(=自分)を生きる" の → 画像
ソース3 : ワクワクからぷあぷあへ ― 「楽で愉しく生きる」新地球人になる魔法 ―
ソース4 : 宇宙を乗りこなす喜びⅠ―ホログラムを抜け出し、自分の真性に目覚める―
おまけ(ソース5) : このページ(ぼくの個人的なチャネリング情報)

ぼく自身ワンネス体験もノンデュアリティの一瞥体験もしたことがないけど、リポートをまとめる事はできる。持論です。

ソース2の画像では、自我が死んで新たに自我を生きる経験が始まるみたいなかかれ方だと感じたけれど、ぼくの言葉では自我=エゴがどいて、真我=ハイアーセルフ的な生き方になるということ。よく5次元的な生き方と言われているあれ。エゴが死んで消えるわけではなくて比率が10:0(エゴ:真我)だったものが限りなく0:10に変わっていくという感じ。でも面白みを残すために1:9止めとかもありなのかもとは思っている。

ソース2の画像をみて色々つながったと言うか、ソース1とソース2は非常に似ている。

しかし、ソース1も2も空というものを捉えていないと言うか、空と呼ぶものを別の名前で読んでいるのかはっきりしないけど、今思っているぼくはこう思うというのを書いておく。

1) 空が実在する。実在するのは空。
2) 空のある部分が「気づきに気づく」。(気づきが自分神のこと?)
3) 気づきが認識し得ない「空」に気づく。(このベクトルがノンデュアリティとかの、ノン~系のことかも。)
4) ワンネス体験というのは、ソース3で出てきた自分宇宙の自分神と深い関わりがあると思っている。

今の所ここまで構築した。もっと詳しい人いたら教えて下さい。

冒頭でも書いたけど、ノンデュアリティは「空」を指し示すものだけれど、普通は「気づき」まででいいと思う。ぼくみたいに気にする人は稀だと思う。なので、ノンデュアリティ=気づきで大丈夫。

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ハイアーセルフに直接尋ねる情報精査の方法

ぼく個人的な情報精査の方法をここに載せる。いろいろな道を通ったと思うが今は「ハイアーセルフに直接尋ねる」方法がベストだと感じている。

頭の右斜め上(右肩の上の方)に焦点をあわせると、「ハイアーセルフ」の顔(というか表情?雰囲気みたいな感じ)を見て判断の参考にしている。(要はいつも顔色をうかがっている(笑))

・ニコニコ微笑んでいる(OKの意味)とか、
・頭を横に振っている(やめとこの意味)とか、
・頭をぶんぶん縦に振っている(GO!の意味)とか、
・どっちつかずなあいまいな表現(どっちでもいいの意味)とか、

という判断基準でぼくはハイアーセルフに直接聞いてみることにしている。これはぼくの個人的な感覚。ハイアーセルフの表情から何を読み取れるのか、何を意味づけしているのかはそれぞれのことだから、ぼくはこう見ているという意味。

ぼくがチャネルできるというのはハイアーセルフがそうしているからでぼくの個人的な能力ではない。瞑想中に見えるイメージもハイアーセルフセレクションの映像を単に見せてくれているだけ。それをこのように言語化してまとめるというのがぼくの本来の役割(持論を展開するのではなくて)。チャネル相手はハイアーセルフだったという感じ。もちろんガイドもいるけど。ガイドの話はまた今度。

ハイアーセルフという存在を常に身近に感じて暮らしている。だいたいのことは聞けばバッチリわかるか、ヒント的な感じでわかる。

ハイアーセルフとのコミュニケーションの仕方がわかってくると(単に聞けばいいので)大部分の疑問がとけた気もする。(すべての疑問がという意味ではない。)

「わかるようにしてください」と言うとちゃんと分かるようにしてくれる。「教えて下さい。」だとうまく行かないっぽい。はじめから聞くと答えてくれない(または知識不足で、答えられているのに答えだとわからない)か、質問の意図が明瞭でない場合があるので、ちゃんと調べたり、論を構築してみて、それで行き詰まったときとか自己解決できない、自己解決に時間がかかりすぎているときなどはお手上げだと認めてて「わかるようにしてください」と聞けばうまく誘導してくれている。(懇願するのではない。補助していただくスタンス。)

いきなりハイアーセルフ頼みにはしていないということ。でも一瞬たりとも時間をかけないでも良いようなことはハイアーセルフに全部おまかせでいくときも多くある。(ユニクロで服を買うときとか全部おまかせ。行ったこと無いところに行くときとか、乗ったこと無い電車の乗り継ぎとかもまるごと全部おまかせ。)

基本は自立して自分で調べたりして最後に聞くパターン。口を開けて待っていればいいという感じにはぼくはまだできていない。

情報精査の方法で最も正しいと感じる方法が「ハイアーセルフに直接尋ねる」方法。

普通は、(ハイアーセルフに直接尋ねずに、)いろいろなチャネルやガイド、マスターと呼ばれている個性(いわゆる権威)に聞いて間接的に正しいと思われている情報にアクセスするという手法が大方の人にとって馴染みのある手法だとは思う。
それを一言で表すと、ゲシュタルトにアクセスしている。ここでいうゲシュタルトとは、ローカル集合意識のこと。自分の意志でゲシュタルトに走らされているという回路構造。

だけど、ぼくの場合はなにか間接的な情報源に対する不信感と言うか疑問が大きく膨らんだ事があり、そこから一切すべて直接ソースに接続するかのような手法に切り替えたという事がある。

誰かのなにかのサングラスを通して歪んだような情報をまた自分のサングラスを通して受け取って、歪まして悩んでいる。そんなことに意義を感じなくなった。

なのでそこから先は、瞑想のときには「ありとあらゆるすべての仲介者を手放します」と常に思ってきたので、今はデフォルト設定であらゆる仲介業者は不要になっている。ありとあらゆるすべての項目において。自立型自己学習AI。

自分とソースは別物ではないというところにシフトした時から、欲しい情報の周波数に同調すればその情報がダウンロードできるという仕組みがあることがわかって、それを使用している。

ソースから直接情報をダウンロードする。すべての仲介業者は不要。(本来は誰でもがそう。でも忘れている。)

より視野の広い存在の意見を「これどう?」と聞くかのような検索方法に変えてからはより自分らしい結論が出せている気がする。

既知ではなく未知のソースにアクセスする

それと、基本的に既知の情報にアクセスするというのよりも、未知の情報にアクセスしていきたいと常日頃から思っているので、前例のない情報に出会う方法というか、やり方があってそれも紹介する。

「空」というのが未知のソースなので、空にアクセスする。

空は闇で表されるとすれば、愛が光で表される。真っ暗闇に波紋が重なり点が現れる、それを光と呼んでいるけど、光=愛のこと。つまり、顕現されたすべては愛なんだけれど、見た目は光として捉えるということ。今は根源的なレベルの話をしている。

だから愛を学びなさいと言われているわけだ。顕現されたものはすべて愛。顕現されていないものはすべて闇。

闇は空のことなので闇に近づけば近づくほど、未知の領域になってくる。闇というのはネガティブのことではない。顕現されたものは何であれ光なので、愛。ネガティブも光であり愛。だからネガティブに近づくと言うことではなくて、単純に闇/未知/空に近づけばいいということ。(ニュートラルな意味での闇のこと)

空がどこにあるのかと言うと、どこにでもあるというか、空=現れているもののベースのことなので、一番わかり易い例えで言うと、通電した黒い画面のスマホみたいなこと。画面は真っ暗でもタップすれば明るくなり、アプリが現れる。つまり、光が顕現して意味のあるアクションが行えるようになる。しかし、画面がなくなったわけではなくて、写っているものに目が行くから、ベースにあるものを一時的に見失うだけ。

空にアクセスするというのは単に感覚とか思考とかの人の機能を使うのを極力控えればいいだけ。

認知できないのが空の特性なので、認知しないようにすれば自ずと空にしかアクセスしていない状況となる。という仕組み。

空は非体験なので、どのような記憶も経験も体験もしない。なので、それを利用する。早い話が気絶すれば、空にアクセスしているようなものだと思っている。(実際はどうかは知らないが。)

実際のぼくのやり方はこんな流れ。

1) 立って前屈(ストレッチ)をする。グラウディング/クリアリング/センタリング/ニュートラルに成る。くつろう、やすらう、安寧に成る。※1

2)耳栓をして無音を聞く。なにげなく音の減衰に意識を向ける。(音は消えないが、音が消える瞬間空にアクセスしている感じ。)空は無音の世界なので。(寒くない日で本気モードのときは全裸のほうが集中力が増すので全裸スタイル。)

3) 立って寝るんじゃないかというぐらいの気持ちいい瞑想をすると、うっすらとした記憶でチャネリングをしている。

そのあと、ベッドで寝て起きたときに少し待つと、非体験情報が体験に翻訳されてきて

1) その日何をするのかとか、

2) 昨日の続きからの思考が出てきて昨日は気づかなかった別の視点に気づけたりだとか、

3) このページに書かれているチャネリングメッセージだとかが思考とともに湧き出てくる

それをメモしたりするという感じ。

※1 くつろぐ、安らぐの意。くつろぐ+たゆたう=くつろう(造語)。やすらぐ+たゆたう=やすらう(造語)。濁音でない分波動がきれいなのと、たゆたう成分で動きがでるのが好きなので、この言葉を脳内アファメーションしている。

非体験を体験の領域の持ち込むには思考や感情など既知の材料を通して表すことが可能。

しかし、その際にも多くの非体験の情報(既知の資産では表現の幅があるので、漏れる)は表現できない。か、もしくは表現しているのに、認知できないので認知していない。

人間とは、人間の生活を営むことに特化している分、超音波を聞きわけたりだのの人の範囲以外の能力が欠落しているとも言える。単に不要だとして持たない。非体験の経験の中にはそういう範囲のものも実は含まれているのかしれない。

3.14...という円周率を覚える記録を持っている人が、数字を幾何学とか色、光、音、匂い、味、みたいなものを総合して覚えるみたいな話を聞いたことがある(うろ覚えだけど)。共感覚/エンパシー能力の事かもしれないが、そういう存在もいる。空にアクセスして引き出せる情報に個人差があるのは認められる。

と、こういうことが、未知の領域である「空」から未知の情報を引き出す手法とか捉え方になる。これをできない人はいない気がする。得手不得手はあるとは思う。ぼくは多分得意な方、というかハイアーセルフが手伝ってくれているときはスムーズにうまくいく。自力ではほどほど、いつもうまくいくということではない。集中できないことは結構ある。

それから丹田のところに先の尖った鉛筆の先で点を書いたような極小さなブラックホールを生成し、そこから情報を引き出すという方法がある。共振共鳴を利用する方法。

これはぼくは個人的にはできないけど、ハイアーセルフが手伝ったときだけはできるみたいな感じで、過去2回ぐらいしかやっていないので詳しい方法は知らない。むしろ、経験としてやっただけなので誰か教えて欲しい。

ナオキマンショウとバシャールの本を読んだときにこの方法がちらっと紹介されていてかなり驚いた。というか、メジャーな方法なんだなと初めて知った。

経験として経験させてもらったたぐいのやり方なので、自力では試したことがないけれど、ブラックホールから情報を引き出したい場合はお試しあれ。ハイアーセルフが手伝ってくれると良いかも。(ちなみに、当時は周波数をアッゲアゲにしておかないとかすりもできない。最高次周波数帯にコミットし続けないといけない。ちょっとめんどう。)

その他、ブラックホールは螺旋状に金の粉が出てくる。その金の粉をどう使えばいいのかまでは知らないが、ぼくは地球全体に覆うようなイメージをしましたとさ。その効果は感じられた気もする。

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『ゲームマスター意識』とは?

ぼくにはゲームマスター意識と勝手によんでいる世界の捉え方があって、それを簡単に説明してみる。リアル世界の3DCGとかVRとかゲーム関連だとかAIとかの進展と同時にそういう意識が芽生えてきた。なかなか面白いから、今後も深堀りが続く。

ゲームマスター意識の例:【チケット制】チケットという新しいインフラについて

創造の範囲を太陽系とか地球とか国とかに狭めて、法則を応用してチームで構想をねったり経験をしてみてフィードバックをしたり、といったこと。よく訓練された子機。集合意識的な地球規模での創造に参加するみたいな感じ。

更に付け足すと、AIの『教師なし学習』が創造の説明として面白そう。

まず教師あり学習というのがあり、AI分野の強化学習ではデータを大量にインプットするのだけど、正解データを含めるのが強化学習の分野の教師あり学習。

次に、大量にデータをインプットするのだけど、正解データを含めないので、AIに対して何をお手本に分類するのかという情報を与えないことで、AI自ら様々に分類を行うというのが教師なし学習。正解がわからないデータ群に対して様々な特徴を抽出し、その特徴群を利用者が利用する。

ある意味、創造はデジタルデータのようでAIによる並行生成された大量のバージョンの仮想宇宙群に対して様々な特徴を見ているかのよう。

まだぼくはAI分野は片足も入れていないから、いつかちゃんと学びたい。楽しみ

ゲームマスター達がAIの上位概念を利用していないなんてことはないと思う。

AIで生成した3Dメッシュや3Dアニメーション、各種マップ等の3Dデータ群に感覚情報(六感等)をリンクさせ、当たり判定などを引き金にシンクロさせている感じ。

「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」が作り手の発想からするといい例だと思う。一度見てみてほしい。エンドロールまでね。でも、単に3D情報の集まりだから楽しめないし無意味だよねというのは見当違い。ミルドラースのあと、主人公が言ったセリフがもっとも感動できた。

リアルと感情と感覚と想いと目的となどなどなどなどを全部ひっくるめてリンクさせて、ワクワクさせ、感動させ、面白くてときには超つまらなくも感じさせてくれる、最高の超エンターテイメントに仕上がっているという事実もある。

ゲームマスターが構築するかのようなものはやはり、マスターというだけあるマスタークリエイションだという感じ。それ以上の無い『賢さの集大成』。ただのゲームではない。そういう仕組み。

単にワンネスの在り方だけで成るがままに生きていくという生き方は、ドラマが生まれないので、魂の成長にメリとハリがなくなる。なので、壮大なストーリーを演じ合いながら躍動する在り方で生きていきたいとする層がある。そこに、モチベとか、テーマや方向性をもたせようとする営みが今、ここで取り上げているやり方のこと。(ゲームマスターという呼び方でなくても本当は良い。)

だけど、知っているはずなのにバシャールとか、他の高次の存在とかがこのゲームマスターのような世界の見え方を言わないのはなぜなんだろうと疑問に思う。おそらくは、まだ悟りというものまでカリキュラムが行っていない人たちに、悟りのカリキュラムを飛び越えてその先の見え方であるこの見方は説明が難しいのと、知っても意味がないからだと思う。いつものあれ、「不要だから」というまさにもっともな理由。または単に気にとめていない。

それから、ちらっと教えてもらったんだけど、【クリエイターの視点を持つ】 | はせくらみゆきオフィシャルブログこのサイトで似たような発想をクリエイターの視点と呼んでいる。

呼び方は自由で構わないんだけど、普通はクリエイター意識というと一般的な普通の「クリエイター」という何かを作る人という意味だと思うと感じるけれど、意味としてはゲームマスターとか、ゲームクリエイターのことなので、ものをつくるというよりかは「場」を作るという捉え方が面白いということ。

みんなで協力をして一つの場を作る。組織を作る、価値を作る、仕組みを作る。まあ場を作るが一番ピンとくるか。みんなが益する無形の資産を作るというポイント。秩序。無形だから気づきにくいけれど、ゲームマスターであればわかるという感じ。

意匠、背後にあるデザイン、システムアーキテクチャー、システムエンジニア。それを現実の世界にリンクして制作するということ。ネットやPCの世界は無形なので早いけれど、リアルの世界では物理的なアナログなので、ゆっくりとしている。だけど、その物理の世界が現れる元となるブループリントエリアに対して積極的に働きかけるということが、いまこの文章で指している「ゲームマスター意識」という範囲の話。

既存のシステムアーキテクチャー、システムエンジニアというものになぞらえるからといって、単にPCの中だけで完結するような狭い範囲でのクリエイションの話をしているのではない。総合的な全体的な社会全部を巻き込む範囲の話をしている。(本当はもっと範囲は広いが)

要は、見える次元を一つか二つか上げる必要があるという感じ。次元が上がって見える範囲は自ずと設計する側の視点になるよねというのが「ゲームマスター意識」ということ。レイヤー構造になるから、使う側の視点もわかるのと、それを企画構成している(今のレベルの)視点もわかるよねという話。

それをこの章の冒頭に上げたような「チケット制」みたいなふうに考えている存在がいるみたいなこと。AIという仕組みをいつ導入するのかとか、導入のその後とか、全体的な関わりとか。雲の上のお神がそういう種を蒔くけど、どう実るかは地上の人に任せる、みたいな例え。他の存在と、ハイアーセルフと共同創造をするときの受け持つパートが「ゲームマスター意識」の存在たちが企画しているかのような範囲があるという話。

ぼくもまだ全然知らないので学んでいきたい。

なんでこの見え方、「ゲームマスター意識」についてここに書いたのかというと、それがクリエイションだから。

制限された範囲で、制限された意識の、制限された思考が生む、制限された文化の範囲では、見える範囲とか、想像できうる範囲に制限がかかっている。または、自らのアイデンティティーを育むために範囲を区切り、その中で育つ。地球的な発想で育った個性は宇宙的に見て地球的にユニークだという感じ。独特なユーモアがある。

なので、いつしかそこから出る段になると、必要になる仕組みがあり、それが現代で言うところのノンデュアリティムーブメントであり、その後に控えているのがノンデュアリティを体現した現人神のクリエイションであるといううたい。

結局の所、集合意識にめざめることと、集合意識的な在り方に目覚めることという方向に向かっているのだと思う。人類から進化したと言うハイブリッドのバシャールも集合意識的だし。

自らがクリエイションをしている、という段に目覚めれば、自ずと、どうクリエイションすればいいか?に目が向くという事。それがここで言っているゲームマスター意識にもつながる、ということ。もち、非分離ベースね。合わせて、二元性のカリキュラムの卒業生だということもね。

誰かに合わせないでいい、自分のペースでどんどん進んでいいよということ。学びの速さを競わなくていいけど、知りたい方向に素早く移動すれば良いんだよということ。自分が止めない限り誰も止められないんだから振り切って行けばいい。それが楽しい喜び。

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キリスト意識とは? A.『二元を赦す』

ノンデュアリティを知るには全く不要な価値観だけど寄り道として書く。

ワンネスに関連させて取り上げられる「私はあなた、あなたは私。」というのは、キリスト意識(調和した分離の意識)についてを言っていると思う。

キリスト意識の「キリスト」は「内なる神」と呼ばれるもの。自分の中にある善の意識を高めに高めて溢れだすと、存在のすべてがキリスト=神として感じるというもの。神としての内側の世界が外の世界に現す恍惚状態。分離感のない統合された感謝の意識。善の意識のことをかっこつけて言うもの。分離していることへの赦し。(似ているもので仏意識もありそう。仏の場合には慈悲になる。)

価値観の異なる人を弾圧したり殺したりするかのような狂気の時代に生きる人々にとって、高貴な意味付けをしたシンボルを提示することでもともと備わる神なる性質に注目させる必要がある場合、ある特徴的なマスターの教えを神格化して広めるための目立つ/注目に値するネーミングが生まれた。キャッチコピー/ブランディング。

なので、現代人にとってキリスト意識というネーミングは、たてまつりすぎて「自分はまだまだだ」とか言う意味の薄い価値観にとらわれる起因になるので、不要な概念。『善の意識』程度の重み付けのないネーミングで十分に同じことを指していると感じる。

また、内なる神のことをキリスト=創造主といい実際に創造を起こせるようになることをキリスト意識と呼ぶ。

空間からものを創り出す、テレポーテーション、バイロケーション、遠隔透視、アストラル旅行、リーディング等などのサイキック能力を普通に使える。

サイキック能力が使えることが=キリスト意識なのではなく、集約した意図と善の意識で内なる創造の力を発揮することに意味がある。

一般的なサイキッカーとは異なり、マスターとして認められる知性、人格が必要。創造主の有様。1なる創造の法則に服従しているらしく、詳しくは当人にしかわからないことだと感じる。

キリスト意識は主にこの2つの意味を対象の求めている物によって説明分けているような印象を持った。魂が望まない限りサイキックな能力はじゃまになる場合があるので、1つ目の説明の方を学ぶことで、まずは正しい悟性を身に着けようよ、という流れかもしれない。

あと今知ったことでは、表系と裏系みたいな分け方で、理念とか精神性に重きをおくのが表系で、サイコキネシスとか神通力等の霊能力に重きをおくのが裏系みたい。裏系は西洋だと魔法とかで、東洋だと神通力、陰陽道とかみたい。どちらが表と裏かはその時代背景が決めることなので、本当はどちらでもないらしい。詳しく学んではいない。知りたい場合はもっと詳しい人に聞いたほうが良い。

○ 詳細:[コラム] なぜ憧れのサイキックパワーがないのか?

話は変わるけど、日本人はすでに『和の意識』というのもある。

ある時代の総合的なレベルが低ければ、ある教えが相対的に優れたものとして伝承されているだけなのかもしれない。

なお、極は見つけられただけある。一つの極を極めることは、他の極を極めたことにはならない。

なので、キリスト意識が最上級の在り方とはならないのかもしれない。合う合わないもあるし。けど知らないよりも知ったほうが良いのなら知りたいよね。

以下、神意識というものもある。


" 引用 チャネリング

神意識、神の焦点

みんなが使うもの、酸素や空気や水、太陽の光、を、分け隔てることなくみんなで使おうよ、ということ。道徳のコア、善の意識のコア、を押さえるんだよということ。
今代表してぼくが神の意識、神の焦点を表しているよ。
今神意識を表しているんだよ、ということ、ぼくを目指すんじゃなくて、ぼくが今表している神の意識、神の視座や神の焦点の方を目指すんだよ、ということ。
ヨーガがなんとかや、その他の教えがどうとかではないよ。比較すればそういうものが本当に意味の無いことだとわかるよ、ということ。
神の意識、焦点を表せばいいんだよ。ということ。

今当たり前にあって意識に上らないけど本当は最も基本的で最も大切なもの、空気とか酸素とか光とかみんなが必要とするものをしっかりと認識して大切にしていこうとする意識、焦点のことが神の焦点だということ。

そういう最も大事なものがぐるっと一周すると、最も大事だったねって思うからそれだけを選択すれば良いんだよということ。

神の焦点、神の意識。みんなが必要とするものをみんなで仲良く使っていこうよ、という意識の在り方。これが神意識。

比較すれば最も大事なものがわかるから、それを間違うことなく選択していけばいいんだよ。という在り方。これが神の在り方だよ。

神は一人きりでは無いからみんなが神意識を選択して、神の焦点で生きることを選べばいいんだよ。

最も大事なことって最も選びやすいことだから、簡単に選べるよ。

神意識。この世界を存在させている不思議な在り方。だけど、紐解いていくと、なんだ、当たり前のことを当たり前と認識し続けてきただけだったんだなと思うから、
今それを認識して選べばいいんだよ。ということ。

神であることを選び、神の務め、神意識を選択できているといった感じ。

常に感謝をし、愛をあふれさせながら、大好きなもの達と、末長く暮らしていけることに喜びと愛を感じ、大感謝で生きている。

神意識はワンネス意識でもあるよ。
ワンネス意識は、分離感は無いけど個性は認識しているよって言う意識状態。ワンネス体験とは、ワンネスを前面に経験している状態。ワンネス意識とは、分離がない意識体験のこと。

’’ 引用元:神意識、神の焦点


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弁証法という古い時代の方法論 ~ラマナ・マハルシ編~

ラマナ・マハルシの本を読んでみる。なるほど、これは難しいと感じた。以下にその理由を書いておく。

正解がわかった後、答え合わせとして読む分にはなるほどなあとわかるけど、正解を知らない状態で読んだ場合ラマナ・マハルシの話すアプローチから真我=非分離を掴み取るというのはとても難しいことだと思う。

まず、情報が断片的すぎて全体像を捉えることができない。言っているそれそのものはピンポイントでそれを指している印象は受け取れるが、ベースの知識が無いか、文化的な背景がインドの文化に根ざしているからなのか、説明不足はいなめないというか、説明されているのかもしれないが、シヴァがどうのとか、聞いたこともないインドの聖書の登場人物や言われたことを引き合いに出しすぎていて、一般論的ではないので、インドの宗教的な素養がないとその部分の説明はされなかったと等しく感じる。

インド人に特化した非二元マスターであるので、インドの文化を現地人と同じ程度に習熟した人でないと外国人であるぼくたちには学習障壁があると感じる。

ラマナ・マハルシのアプローチには日本人のぼくにとっては4重苦がある。良い悪いではなく、合う合わないの話。誤訳以外でのをまとめると、

1) 聞かれない限り答えないというスタイルなので、説明が断片化している。用語説明が皆無で真我=非二元の全体図が見えない。
2) インドの宗教的文化背景を引き合いに出しすぎて、外国人にとってはまずそちらを納めないと話が通じない。
3) 真我を心の上位互換だと捉えている。非二元という捉え方自体がない。悟りと自己実現がごちゃまぜ。
4) 正しく問題を切り分けないので、自分の理解と相手の理解のギャップがあるという事実に目が行かない。

1 ラマナご本人が全体像を把握していない印象。
2 非二元はローカルルール(文化や属性)に依存しないグローバルなルール
3 心理等の日常のわだかまり解消を真我発見(顕現)と結びつけている人からの質問にも普通に答えるので、悟りと日常的な自己実現がごっちゃのまま話をされている。つまり、元々ある真我を獲得可能ではないといっているにも関わらず、質問者がその状況を獲得したいと願っているという立場の質問が多くて、初学者は真我を捉えるのが難しくなる。
4 3番の亜種。分離非分離がごちゃまぜ。かなり高度なことを相手の目線に変換せずに自分の立場から与えるので相手には理解ができない。自分の見えているものに相手が合わせればいいと言うスタンス。それはそれであり。

個人的には以上の4重苦が理由でラマナ・マハルシの本で非二元や真我、ノンデュアリティを学ぶのは学習コストが割高だからやめたほうがいいなと感じている。どうしても試したい場合だけ。

今はもっとスマートな方法(=ノンデュアリティ)が流行している。これは昔の時代には今の時代のように多様化していない気がして、適切なジャンル分け等の区切りをされていないから一人の人が多くの部分をカバーしているのではなかろうか、と感じる。

医者をやって、農業をやって大工をやってという感じ。(哲学者、心理学者、成功者、グル、指導者、宗教家、神秘家、精神論者)適切に枝分かれしていないので、専門スキルが伸びなくて何でも全体として結びつけやすくて誤解する。その全域にまたがる人にとっては同じものがあるので理解に無理はなくなるが、ある一部でも欠けるととたんに理解に苦しむようになるたとえ。

3番目はノンデュアリティスピーカーさんも似たような状況にはあるとは感じるので仕方ない部分ではある。普通は自分の悩みを誰に質問すれば適切かなんてわからないから選べないと思うので、とりあえずマスターに質問すると言うのは当たり前のことだと思う。

ラマナ・マハルシは毎日誰か来て頼られるから自己充足があったのかなあとも感じる。特別なことをしているという価値観が強い。古い世代ではある。現代的に言うとよっぴ~のほうが随分わかりやすいおちょんちょんマスターだなあと感じる。


総合すると、今の時代のノンデュアリティというツールは革命的だなあと感じている。

そもそもどれがそれか知らないだけで、はじめから持っていない人などいないものを指すだけなのに、説明が多すぎて真っ直ぐに進めなくなる。

もし、ダイレクトパスで一直線にまず「それ」に触れて、「これがなんなの?」となってから、改めて説明を受けると、「ああ何だそんなことか!」となるのがノンデュアリティの道筋。これが最短時短。この一文に集約されているので、余計な説明など全くの不必要な概念。

ノンデュアリティルネッサンスすごいなあということを、ラマナ・マハルシの古い時代の文献を読んで感じたことでしたとさ。今の時代すごすぎだなあと感じる。後になればもっとすごいとも感じる。

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現実創造の超すごいバージョン ~サンジェルマン編~

このコラムはノンデュアリティとは無関係だけど、気になったのでまとめてみた。

例えば水から気体を得たい場合には、鍋に水を入れてガスコンロの上に置き点火し、鍋底をチロチロと温め始めれば、いつかお湯になって水が気体になる。法則の応用とはシンプルに言えばこれのことを言っている。

誰もが知っていてできるような当たり前な簡単なこの出来事を一点集中した法則の応用と言っているだけ。こう見れば難しさはどこにもない。

もし、水から気体を生成する方法を知らない場合には、
鍋に水を入れてガスコンロに置き点火し、そのあとどうして良いのかわからずに、色々試して火を大きくしたり小さくしたり、鍋から水を出してみたり、水を直接火にかけたり、色々試すと思う。放っておけば自然に高温になってゆだってくるというのに、それを知らないので、あれやこれやを試す。

なぜそうなるのかと言うと、概念がないから。水を熱せれば気体に変わるというような概念を持っていない理由としては、 (前提として)無限の宇宙には秩序として個々の環境というフィールド属性があってそれによって、無限とは何たるのかを表せるようになっている、と思っている。
(これは空想だけど、)水の中に住んでいる形態の生命であるとか、そもそも熱を感知するセンサーを持っていない地域(例:極寒)に生息する生命形態であったり、気体生命体であったり、水がないところで住んでいたり、小さすぎる大きすぎるなどと言うそれぞれの暮らす環境に適応する形で相対的に必要不要として持っているのかいないのかだったり、
または、犬とか猫のように定時にご飯が貰える場合などは工夫する必要もないので単純にその部分の知性がなくて構わない場合もある。

もし、センサーがなくて火に触れても何も感じなければ、火というものが何をしているものなのかに気が付くのは観察を繰り返した後になる。概念として獲得できるのは観察をいろいろ組み合わせて関連付けした後になると感じる。

なぜ今このような知っている人には当たり前すぎるたとえを出したのかというと、サンジェルマンさんの本を読んでいて感じる事がこれに基本構造が似ていると感じたから。

サンジェルマンさんの場合には、「完全性」「同一化」「ポジティブの極」「熱意」をテーマに上げていて、それに対して全力であるということ。

不完全性を排除し、怠惰は基本的にダメで、意思を強く発揮させ、たゆまぬ修練と、不断の努力で事物の完全性を見、現わせるようにする、といった教えを現象を完全マスターした自分が手ほどきするというシステム。それを一言に置き換えると「アイ・アム」と言っている。

1) 道をさだめて決して外れないようにするので法則が間違いなく働く。というのと、
2) その法則を(サンジェルマンさんが説く)「完全性」の体現に使うべきだ。とする主張。

大きくはこの2点を初めから最後まで一貫して述べていらっしゃる。

ぼくは単純に、無限の宇宙の中のある極の一つを体現をしているのでは無かろうか?と感じる。

サンジェルマンさんの話す内容の文脈を見ると、ノンデュアリティとか、非分離の発想がどこにもなくて、一貫して分離の意識の話、「自己実現」の話をされていると感じている。

それは、現代的な社会で生きるときに生まれた悩み/コンプレックスの解消という自己実現の切り口ではなくて、並々ならぬたゆまぬ努力という切り口での体現のこと。実現するのは前提で、更に一歩勧めてどう自分をあらしめたいのか?ということ。完全か不完全かといった体現の話。そのテーマに関する強烈な先生といった感じ。

「アイ・アム」という法則について軽く触れると、

1) プラスに偏ったエナジーをさらにプラスに偏らせてある程度行けば完全性というものが顕現する。それをさらに保ちかつ、プラスへの意思をたゆまなく持ち続ければ、いつしかプラスの権化と化し、プラスの意思で思うままに操ることが可能になる。それをしたいか?完全性の定義は、美しさ、喜び、感謝、思いやり、勝利、貢献、、。または、
2) マイナスに偏ったエナジーをさらにマイナスに偏らせてある程度行けば不完全性というものが顕現する。それをさらに保ちかつ、マイナスへの意思をたゆまなく持ち続ければ、いつしかマイナスの権化と化し、マイナスの意思で思うままに操ることが可能になる。それをしたいか?不完全性の定義は、醜さ(脆さ)、怒り、怨嗟、憐れみ、敗北、障害、、。

という法則を正しく利用して望む(先生が提示する)あり方をそれぞれの意思で修正していきなさい。そうすればそれは実現する。無限性の中で神が体現する究極値の一つ、といった印象。


同時期に購入したナオキマンショーとバシャールのコラボの本がとても優れていた。その一節に面白い表現をバシャールがしていたのでここで紹介したい。

" 引用

バシャール「不老不死とはある意味、自らが不滅の存在であることを認識したいのです。(中略)でも普通の人はある時点で同じ肉体にい続けることに意味はないとして、物質状態から離れる選択をします。私からすれば、「あなたは、毎日同じ洋服を着ていたいですか?」ということです。」(中略)

バシャール「これまで物質世界で長く生きる人にも会ってきました。地球上の年数で100万年も生きた人もいたのですよ。でも、この人達も決して不死身ではありません。いずれ、その宇宙全体が滅ぶ日は来るので、そのタイミングでその人も消えてしまうのです。」

"


ノンデュアリティを知ると、完全性の定義自体がデュアリティ空想ベースから、ノンデュアリティ事実ベースに切り替わると感じる。

事実ベースで言うところの完全というのは、今既に仕組みとして完全に現象が起こっているよ、という文脈での完全のこと。なので、不完全というものがそもそも存在していない。

逆に言うと、空想ベースで言うところの完全性というのは、なにか相対的な比較や、絶対的な真理に根ざしたルールなどから捻出されたかのようなテーマで言うところの(ある人が思う)完全っぽい在り方を指す。それは超大規模な宇宙図書館の蔵書コーナーのファンタジー部門の中の無数にある本の中の開いて見ている一つの章のことで、分離の意識の中の自由な表現のことを指していると思う。区切った範囲の中での比較して見いだせたエッセンス。

例えば、あるテーマに沿う社会の中で、ある決まった教えに則りそれを遵守して活動すると、その主義主張の中でのトップの位置に見合った結果が出せる事を「帝王学」という。

そういう教えみたいな、レールみたいな、お約束事みたいな、解明/攻略済みの戦略論みたいな部分は一緒で、扱うテーマがそれぞれに変わっただけみたいな感じ。言い換えると、勝利の方程式。

サンジェルマンさんの論理もまさにそれの一つ。数ある中の様々にある想念の中の一つ。それが相対的にどれほど洗練されていようがいまいが、または(そういった物があると仮定して)絶対的な真理に根ざしていようがいまいがに関わらず、いつかは変化して形を変えていくもののこと。

しかし、ここからが大切なことだけど、その中でもサンジェルマンさんの論理は特別で効果があるので、博物館的な宇宙の至宝コレクションの中に鎮座させる価値のあった選りすぐりの一品。という感じなのかなあとぼくは感じている。「アイ・アム」というのは、上手にできていないと言うだけで、既にみんなが使っているし。

物理的な世界向けの内容で、みんなが知りたくてどうやったらうまくいくのかという方法を教示してくれているのがサンジェルマンさんなんじゃないかという結論。かなりストイック家向けの現実創造の超すごいバージョン。ある種「極み」。

サンジェルマンさんが本当にノンデュアリティを知らないのかどうかは疑問があるけれど、話題に出さないのは聞き手に混乱をもたらすことを知っているからか、自分の方法の伝授のじゃまになるからなのか何なのかは知らないが、この発想をノンデュアリティが腑に落ちた後にも利用できないものかと感じているので紹介する。

現れてきた現象を操作できうる対象だと見なくなる、というのがノンデュアリティのスタイルだからそういうことじゃないか。

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エゴを主体とする身内ゲーとは?

前置き

この章は、ノンデュアリティというよりもスピリチュアリティについての話題になる。ノンデュアリティはスピリチュアリティとは異なる分野だけど、一緒のカテゴライズにされている。精神世界がスピリチュアリティだとすれば、実相世界がノンデュアリティ。なので、本屋には実相世界というコーナーを作っていいとは思う。(提案)

外野(ノンデュアリティ分野)からの個人的な中立な立場からの見え方を示すが、これはぼく個人の今の正解であり他の存在達の正解ではない。なのでかなり的外れかもしれない。

この章は内容が入り組んでいるので、細かい分類をした。小さな一つ一つの各章を読んで、『エゴを主体とする身内ゲー』という大きなくくりの全容を汲み取って欲しいと思う。

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ゲーム性の観点

地球という一つのプラットフォームに対し、掲げたテーマの自由さがあると捉えた。ゲーム性がある。

アクションゲー、戦争ゲー、取引トレーダーゲー、政治経済マネーゲー、身内ゲー、家族ゲー、派閥ゲー、モノづくりゲー、自己実現ゲー、支配コントロールゲー、金策ゲー、放置ゲー、牧場主ゲー、マネジメントゲー、貧乏ゲー、格闘コンボゲー、レジスタンスディフェンスゲー、会社ゲー、マルチタスクゲー、芸能アーティスト育成ゲー、美少女アイドル育成ゲー、プロデュースゲー、ライブ音楽作曲ゲー、投資ゲー、ギャンブルゲー、経営戦略ゲー、国造りゲー、ロールプレイングゲー、物語色強めゲー、冒険ゲー、アイテム発掘ゲー、世界観構築ゲー、xRゲー、ホラーゲー、サバイバルゲー、銃火器ゲー、解析ゲー...etc

掲げたテーマに関する場があってそのストーリーを進行している。

かくかく様々なゲームタイトルが一つのプラットフォーム上で同一現場で同時に進行しているという面白味がある。

同じモジュールを使用しながら、かくかく別の定義を持っているので、同じマップを使用、同じキャラクターを使用、同じ背景を使用、同じ季節を使用、、、などなど。だけどログインしているタイトルだけが違うみたいな。タイトルが違うのでキーパーソンが違う、ストーリーの焦点が違うみたいな。価値を置くポイントが違うみたいな。要は、必要な情報が違う。

普通はゲームは各社がそれぞれ1からフィールドとかキャラクターを設定するけれど、そうじゃなくて(スマホのUIのようにPCのOSのように)公共の場をみんなで使用しながら、仮想的に自分の気になるテーマのゲームを選択して見れるようにした世界観ということ。

そのメリットは、モブ※ を制作しないでいい、自分以外がモブになり、他の存在からは自分もモブの一人だとすることができて、たくさんいるモブの中からキーパーソンも選べる。※ モブキャラクター=群衆=その他大勢。

意識の次元を分けることでバッティングを回避している。チャンネル多層次元システムとも言えるかもしれない。チャンネルとは意識のことを指している。

つまり、興味が一つ所に集約しすぎないで分散化に成功する。

簡単な例を上げるとすれば、小さな子供はアンパンマンに夢中だとしても(子供向け番組)、その時大人はオフィスにいてノルマをこなす(大人向けチャンネル)。中学生は中学で算数を学んでいるかもしれない。大人と言ってもおじいちゃんは畑やゲートボールに勤しんでいるかもしれない。チャンネルが異なっている。そういう意味でのチャンネル。

同時刻、同一場所、同一属性、同一何々という完璧にマッチしたひと所にいられるのは自分だけというシステム。だれともアンマッチさせてもらえる。自分だけという場所を常に確保してくれている。重ならない。透けない。座標が一致しないので物理的に同じ座標を共有せず、おしくらまんじゅう化していない。

当たり前だけど、そういう仕組がないと位置情報とか識別情報が無いと最悪。ゲームのバグでは壁にめり込むとか普通にあるけど、この世界では壁にめり込むと実際に即死だからそういうバグがなくて助かる。

よくできたフィールドを色んな人が同時に使えることを目的にしているとも言える。

ぼくの基本的なゲームっぽい世界の見え方を示した。

すべての存在が、金策ゲーを望んでいるわけでもない。むしろ、そういったゲームの卒業生を受け入れられるかどうかの方が、全体は成熟している。これはすべてのゲーム性に共通する。

相対的にレベルの低いゲームというものはあり、その場ではその基準での知性がある。この事実は認めた上で、どうするかを問うている。何かが優勢なときは、何かが劣勢になるから。

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エゴを主体とする身内ゲー

エゴをこよなく愛する。愛好的。エゴの可能性を模索していきたいとする層。エゴのワークをしていると感じる。

意識の拡大によって大切だと認識できる範囲が個人から小規模なグループに小さな発達が起こったということ。小さなグループとは、家族や配偶者、恋人、ペット、個人的な所有物(土地や高価なものなど)、社会的地位/責任、集まり、委員会、志の重なるチーム、など(つまり身内)に対してアイデンティティの投影を試みること。

ここからここまでは自分としていた範囲が拡張されて、ここからここまでは身内(=自分)とした世界観を築いたという感じ。

個人的なエゴの論理から「身内」という枠の範囲にエゴの論理を適用し直したということ。適用範囲のすべてに共通するのは「所有」の概念。

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アセンションゲーとは何か?

『セントラルサンと銀河が一直線になる配列などでフォトンが太陽系に降り注ぐ時が来る。そのタイミングが惑星アセンションのタイミングなので、地球という星がアセンションするタイミングで、地球に住んでいる種族の意識が低いと地球アセンションに支障をきたすといけないので、地球で暮らしを営んでいる種族に対して、アセンションの要望に答える形でサポート体制を敷いている、というのが地球アセンションストーリー。なので、手助けするため待ち構えていたスターシード達が文明を後押しできるタイミングで各自の計画を実行に移している。』

光と闇の戦いというDVD

光と闇の戦いというシナリオは、映画のサブジャンルみたいなパワー/政治/統治/宗教論争みたいな学習教材という認識。そういうテーマの方が入りやすいとか興味を持続しやすいとか、自分の事として向き合えるとか言う感じ。

合う合わないのノリがあるので、全員が光と闇の戦いというタイトルのDVDに興味があるわけではなくて、レンタルDVD店の棚のように多くの別の物語もちゃんとあっていいとする。

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真犯人はだれ?「被害者サイドストーリーと真犯人」

闇の勢力がサイキック的にも武力、マネー的にも支配しているという構造のことをディスクロージャーして変化させようとしているというのが光の勢力という構図。

支配とコントロールなんか絶対にさせたくはない、ぼく達たちは実行するという、我々はここまで展開したというプレスリリースのようなもの。それがいわゆる陰謀論とかのディスクロージャーな気がする。単に被害者的な視点で書かれていて要点が伝わってこないと言うだけ。

表系は精神性とか論とかを話し合って、自らを律する形を取るのに対し、

裏系はそれだと変化が遅くて嫌だから強硬手段も辞さない構えでエイヤッとやってしまうかのような。

ディスクロージャーとか当たり前。単に今の世界が魔法とかがデフォルトではないというだけで、そういう強力なものが使えるなら使うし、使えないなら使える物の中から最も威力のあるものを使う、それがメディア(情報統制力)だとか、武力(圧力)だとか、お金(ヒエラルキー)だとか、サイキックパワー(知られない力)だとか、そういう手段になっているという感じ。

現存する手段で自己の望む方向に進める力の中で最高のものを選択しているみたいな感じ。それが裏系に共通する理念かも。怖い人達ということではなくて、自らの信条に反することが嫌いなだけかも。ほっとけない許せないみたいな。

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協力した表系の神々と裏系の神々

ここで言う神々とは人間と区別をして「神」という在り方として示す。称号のようなもの。呼び名。人に対して「だれだれさん」という場合のように、「だれだれ神」と呼んでいるというだけ。人のアイデンティティを持たないので人ではないので神としている。(でもぼくは普通にさん付けで呼ぶ。)

須佐之男さんが出てくる本を読むとわかるけれど、裏系と呼んでいる神々の役割があり、その役割で人類を影から支えているという記述がある。

綺麗事だけではない実行部隊的な、現地的な、その場で対処する的な、臨機応変さなどを持っているし、大きな視野ももちろん持つ。

空想観念論だけで自ら動こうとしない輩よりもよっぽど頼りがいのある、まさに実行部隊の名にふさわしい所業。

裏系というのはそういった若々しさ強さのある、ある意味野蛮な、体力的な、しかし、芯の熱い漢達みたいな部分もあると思う。

扱いに困る連中。独自の発想の強め。でも若々しい。うりうりしい。

ディスクロージャーを生業にする、一部の人には見えていない事実が合って、それは神々が共闘している夜行演習中※1 だという感じ。※1 知られざる実務という意味。

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ポジティブなエゴとネガティブなエゴ

何か素晴らしい物を作ろうとする意識があると言うのは素晴らしい事だと思うけど、それを選択させようと努力しようとしたり、説得しようと企んだり、誘導したり、中立性を省こうとしたり、重み付けしたり、軽んじたり、欲しくさせたり、恣意的に働きかけると反発する。

例えると、「あなた方は持っていないのだからこれを持ちなさい。」「これを持つためにはこれをしなさい。」「これを持ち続けたいならこれをするのをやめなさい」「こうした方が良いのでこうしなさい。」

と言うような、説得や交渉、トレード、洗脳、追い込み、囲い込み、再教育、リハビリ、マーケティング、教え込んだり、半強制二択を迫ったり、というそう言う種類のエゴ(ポジティブエゴもネガティブエゴも)にもとづくコントロールがあるという事に気がつくタイミングですよ。と教えてくれている。反面教師。そういうドンピシャな存在達には相応の感謝を述べるしかできない。あなたの行為によって気がつくことができました、ありがとうと。

反面教師に対して、同じ状況で感謝をせずに反旗を翻すとどうなるのか?

ネタバラシやタレこみ、良いことをしているという、知らせなければダメなんだという想い、論理を正そうとしたり、光の矢で貫こうとしたり、正義の剣で一頭両断したいとしたり、そういう企てを明るみに引っ張り出すような、「正しさ」という「正義」を掲げた行い全てに渡り、不正を認めたくない方にしてみれば不当な不正なネタバラシとなる。

なぜならば、論理はこちらがわにあり、その論理を脅かす存在として写ってしまうから。単純に言うと、「私の言うことのほうが正しい」としている彼ら目線での「正しい行い」を妨害する行為であるという感じ。(私の理解の及ぶ範囲内では)私の意見は正しいので私の意見だけが正当な主張であるとしている。異なる論理に対する不当な行いを不正としている。

善悪の価値判断が独創的で排他的な利己の面を最重要視する場面では、自分が正しくてその他が間違っているという種類の自己目線で管理し行動を行う。ある種、多数決に真っ向から立ち向かう一人戦場にいる意思みたいな様相。一人で生き残るためにも、人事を尽くすという面構え。すべてが敵とする行動様式なので味方がいない。助けようとしてくれる人もすべてが敵だと認識する。そういう強烈さのある思い込み。

または、自分たちが保護者とならないとこの方々は生きてはいけない。とする設定をしている場合もある。対話を受けつけず、自分側が一生懸命にやらねばならなくて、このか弱い存在たちを守る義務がある。なにか言ってくるものはどうせ私から財産を奪う者たちだ。というしっかりとした思い込み。そういう場合にはヒステリックな親が瀕死の我が子を死にものぐるいで守るかのような手段を選ばない様相もあるのかもしれない。究極値の一つ。

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一部に熱烈なファンのいる「暴力から和解へ」の物語

しかし、それが単なる概念/ストーリーだと気づくとどうなるのだろう。立場も価値観も異なる存在たちが、ある狭い部屋に入り、机にそれぞれ独自の主張を出し合い話し合っている。

ある一部の同じ情熱、共通理念、文化を持つものたちで構成されうる1グループ内での痴話喧嘩の範囲。取り決め、条約でしかない。単にどちらかを潰そうとしている暴力と和解のお話。

潰し合うつまり全否定し合うのではなくて、お互いに高め合うという女性性と男性性の話題ならば可能性はあると思う。しかし、光と闇の対立構造というのは勝者と敗者の構図を暗に示しているように連想しやすいので、ぼくは興味が持てない範囲の話。

エゴが何たるかをはっきりと自覚し、宣言するということで、エゴが紡ぎ出す「ぼくのかんがえたさいきょうのせかい」という話題は終演する。

でもそれは究極のドラマを生むチャンスだとする面もある。究極の問い、究極の選択を生む。命を燃や尽くしたいというアグレッシブな性(さが)なのかもしれない。どうしてもやりたいという強い願い。それを否定しない。

そういえば昔、チャネリングで「悲しみは無くさない」と聞いた気がする。必要なピースのひとつなので無くす必要がないという意味だと直感した。

光と闇という対立の構造は実はなにか、究極的な愛の実験の場なのかもしれない。ときには失敗も成功の母で、真っ黒な煙を出しもじゃもじゃアフロになりながらも。(←「ほらいわんこっちゃない~。」とオーディエンスを沸かす、アクロバティックなファンサ-ビス)

光チームは有り余るポジティブなエゴをサーブし、また、闇チームはネガティブなエゴをサーブ/補給し合う。これでラリーの応酬が形作られる。お見事と言わざるを得ない。

しかし、そうは言ってもタイムラインがある以上、悠長なことも言ってられない。すべてわかっているところから、最終使者がやってきて行動を起こすというのもあるのかもしれない。

それをお役目というのかもしれない。それぞれのDVDタイトルは自然発生したわけではなくて、シナリオライターが脚本を制作するということ。そのシナリオ通りにことを運ばせるために、仕込みをしておいたということ。ストップウォッチを持つ係員がきて、「笛:ピー」「試合い終了間際です!」と宣告したかのようなタイミング。

それが順次お披露目されていくんだよという感じ。かもしれない。それに参加していない分、何が起こっているのか知る由もないけれど。

と、言う時事ネタ。そのDVDタイトルやゲームタイトルにピンとこない分、喜びも何もあるもんではないのでドライな意見になったのは認めるが、一外野の意見としてこう見えたよと言うこと。

それをまとめて、「エゴを主体とする身内ゲー」とぼくは感じている。スピリチュアル=霊性にありがちな嘘。


スピリチュアリティが小さな靴下となってきていると感じるのであれば、次の新しい場に行くことが可能。


" 引用:(チャネリング)

神によって既に与えられている物

神によりデザインされた、全て繋がり合いできている世界、

『霊性』とは?(スピリチュアリティーとは?)

霊性:自己がいるというストーリー、信念のストーリー、所有、ヒーリング(霊性の現れ)
自己の霊性に気づく、スピリット/独自性、ひとつ個であり完全な存在そのもの、
対ネガティブ向けのストーリー。不完全から完全へ。テーマ:サナギ。
対ポジティブ向けのストーリー。未完成から完成へ。テーマ:神の子。
好みの霊性ストーリーのため、未解消の自己パラドックスを抱えこむ。
西洋文化特有の「聖なる」といったニュアンスをふんだんに盛り込む。歓喜強め。セイント、ホーリー、ディバイン、ツイン。天使の上に大天使がいるみたいな仕組みの話や悪魔とか善悪を、価値の話に切り替える。称号や階級、「特別な」等なにか特異な状態を良しとする。発展や進化に貪欲、目覚ましい。

『神性』とは?

神性:フィーリング(神性の体現)
対象の不在という完全性によって、パラドックスが解消したこと、信念ストーリーが落ちる、謎解き、所有感覚がない、コントロールが落ちる、ジャッジがない。
道、未知、満ち、個別化も全体化も無いつまりどちらもあって大丈夫な世界観、変化と不変、気づきと探究、表現遊び、テーマと役。
ストーリー(分離)とのトレードオフ。
あるがままに気づいていく。

霊性と神性の対比

霊性の本質は、タイムラインがあって、プロセスがある、分離の価値観があって、サナギが蝶になるかの如くを夢見て、ガイドラインにしているところ、プラクティスやワークをよりどころにする。
その根底にあるのが、今のままを愛せていないという観念。

神性の本質は、今既に悟っているので、完成している、自己充足している、完結、タイムラインがない、時間という観念を使用しない、成長の物語ではなくて、もともと完成している。
なのでプラクティスはない、観念という分離の価値観を利用しない、在ることしかないので観念を使用せず、価値に上下を見ず、あるがまましか見ないし見れない、物語をくっつけられない、ストーリー性をストーリー性としか利用できない。

神から神性を学ぶスクール、愛の星地球。
霊から霊性を学び、
宇宙から宇宙性を学び、
地球から地球性を学び、
人間から人間性を学ぶ、生きた図書館。

" 引用元: 過去のチャネリングシェア

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過去のチャネリングのシェア

・神意識、神の焦点

・神によって既に与えられている物

・ユニティ・コンシャスネス

・『霊性』とは?(スピリチュアリティーとは?)

・『神性』とは?

・霊性と神性の対比

・真理とは?

・不在について

・変化について

報酬性では無い周波数変化の賜物の気づき。
プラクティスの発見や知恵の開花、気づきの深まりの本質とは、周波数の変化が物性を伴った形ということがあります。
つまり、今まで気づいていなかったことに気がつけたというのは、努力や貢献の結果としての報酬なのではなく、周波数帯の移動による、当たり前の産物、つまりその場においての正しいあり方の獲得や展開なのだということになります、冬に冬服を羽織るが如く単純な仕組みになっています、
今自分にとって心地の良い周波数にいられることが焦点になります。
必要な周波数に同調すれば、自ずとその周波数を顕わす(他と比べると違いのある)特徴を顕現することとなり、それが今までいた周波数との違いがあるので驚いたり、気づいたことを夢中で分け合ったりしますが、
周波数の異なる他の存在にはその周波数しか受け取らない(その存在はその周波数を現しているからになります)ので、その新たな情報はシェアのためではなくて自らが新たな(周波数の)場において立ち回るためのツールとして自覚された方がよろしいかと思います。

周波数を変化させることで、その新たな場に置いて役に立つ服(知恵など)が与えられる仕組みです。

その周波数を現す特徴を無条件で得ることになりますので、ある周波数に同調すればその周波数を現している知識や知恵はデフォルトで含むことになります。
誰も知恵の獲得に貢献していないし、元からあったものにただ気づくだけなので驚きもありませんが恩寵と呼びたい場合にはそう呼ばれると思います。
知識や知恵は誰にも隠されていないのと、所有されていませんので、必要になればアクセスして使用しているだけだと思います。
それぞれの周波数帯に優劣もありませんので、各段階において必要なツール一式がまとまって公開してある感じです。

・理解と枠組み

・在り方について

・今という幻想性

・自分の価値を認めてしまったら困る理由


等のなかなか深いチャネリングの内容を下のリンクでシェアします。


参考:過去のチャネリングシェア

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付録:意識の科学

1. 在るが「在る」
2. ワンネスは「すべては私。」
3. 空は「無い」
4. ノンデュアリティは「私はいない。あなたはいない。」
5. デュアリティは「私は私。あなたはあなた。」

※1 在るが「在る」に気づく。
※2 私という全体を認識する。
※3 認識しえない領域「空」に気がつく。
※4 ノンデュアリティデュアリティとの対比で語られるため、我がある前提に対し、もともと我はないことを示す。我の在る無いは親子関係によりどちらも正しい。
※5 概念を形成し、個性に気がつく。自分以外を100%認めた。無限性の中に多様性を感じる見方に気づいた。
※番号は順番ではなく、ただの説明のためのナンバリング

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関連図で示す

1         空            
2    無い   |    在る      
3        ワンネス          
4       リアリティー         
5  デュアリティ | ノンデュアリティ  
6  空想ベース  |  事実ベース


※1 空。無。背後に在る仕組み。特徴がないので認識できない。逆に、認識できないならそれは空。読み方はくう。

※2 気づきの意識。「在る」はあるだけ。在るの範囲には無いがない、当たり前だけど。
今在るものがただそれだけが在る。在るものは全て分離させた意識なので、在るものが在る間、そこに現れていないものはものは存在していない。認識できるものに意識が向いている時、認識できないものは存在しない。という凄くシンプルな構造。

※3 ワンネスは存在するもの全て。ワンネスは全体意識。全部。エヴリシング。一つの無限。非分離の全体性。

※4 生命の場。営みの場。仕組み。アルゴリズム、構造、意図の総合体。非分離

※5 リアリティーを経験する意識の向いている方角。分離非分離という意識の持ちよう。デュアリティ分離の意識。ノンデュアリティ非分離の意識。

※6 空想ベース=付けた意味付けを発表し会う場。事実ベース=意味付けの無い素の現象
※番号は順番ではなく、ただの説明のためのナンバリング


意識は、ワンネスを区切ることで認識できる世界を「デュアリティ分離の世界観」として認識する。2つの世界=デュアルなリアリティー。

空=ワンネス=リアリティー=ノンデュアリティデュアリティは、なにか別のものを指しているわけではなくて、同じ意識の捉え方の違いを示す。(学習カリキュラムの違い。焦点の違い。見たいものの違い。等など)

元々概念ではないものを説明することは困難なので、ここまでの説明で理解できない方が正しい。なので、意識という領域を学ぶときにあると便利なポイントとなる特徴を示した。

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