2020年6月17日水曜日

ワンネス と デュアリティ と ノンデュアリティ の関係性

ワンネス と デュアリティ と ノンデュアリティ の関係について今思っていることをまとめておこう

ワンネス


ワンネスは、すべてが自分であるという意識。

自分でないものが何一つとしてないので、共感覚がすごいみたいな感じ。

ぼくは共感覚が普通ぐらいなので、概念的に理解している感じ。

ワンネスの概念で分かっているのはこんな感じ。

私はあなた、あなたは私。

どうしたってすべて自分のことになる。

それから、元の始原の源が一つだから見せかけ上の違いは存在には関係がないよねというスタンスになる。


デュアリティ



私は私、あなたはあなた。

自分がいて自分以外がいるという発想のこと。

物理世界だからデュアリティの見方を持つというわけではなく、イルカは物理的に生きながらワンネスの意識で生きていたりもする。また、物理的であっても、ハチはコロニー的な生き方をしたり、魚の群れが大きな魚群を作っていたりして集合意識的な在り方をしていることも普通にあるので、物理的=デュアルな発想という構図にはならない。



ノンデュアリティ


私はいない、あなたもいない。

自分という存在を突き詰めていっても到達することはなく、自分の不在が在るだけという認識。

軸となる自分がそもそものところでいないので、自分というものがいるという前提によって成り立つ「相手」とか「他人」とかいうのも概念でしかなくなる。

実際にはだれかというものはいない、という発想。なぜかといえば、自分というなにか確固としたものが存在していないと突き止めたから。

唯一あるのは、「気づいている意識」だけで、気づいている意識は意識活動をせず、気づいているだけだという感じ。ただ「在る」という感じ。

ノンデュアリティーについて集めた情報をまとめるとこうなりました。



ワンネス と デュアリティ と ノンデュアリティ の対比



ワンネス意識は、すべてが自分であるという意識なので、自分軸が重要だという発想になる。

デュアリティ意識は、自分と相手は別存在という発想なので、ワンネス意識では範囲の外で会った「競争」ができるようになる。

ワンネス意識だと自分を傷つけることに抵抗がある場合にも、相手と自分は違う存在と思えるので、「戦闘」もできた。その場合も結局は自分同士で戦って殺したり殺されたり、奪ってみたり奪われたりしているけれど、自分を自分と思わない視野の屈折みたいな効果によって経験できたりすると思う。

死んで魂の状態になると、ある経験を振り返って観察した時に、その場面での相手の気持ちと自分の気持ちが両方ダイレクトにわかるから、そういう学びがあると本で読んだことがある。魂はどうしたってワンネス意識だから波動の共振共鳴で、気持ちがわかるのだろうと思う。

ノンデュアリティーの意識というのは、ワンネスでもデュアリティでもなくてそもそもの発想からして、自分を定義づける自分というものがどこにもないというポイントを指摘している。

ワンネスは自分という存在がある前提で話すが、その自分とは何?と聞くと答えられなくて、「全部が自分だよ」という返しになる。ようは、自分を自分と定義づける「個」の意識がない。

自分を個の存在だとはどうしても感じなくて、むしろ世界自体、存在そのもの自体が自分であると認めている状態、がワンネスの体験。

デュアリティーの意識では、自分はれっきとした「個」であるという意識で物事を判断する。自分と自分でないものというく引きが明白でその範囲で物事を話す。

自分はこう思うとか、あなたはどう?とか言う。

自分に意見があると思うし、保持していると思い込んでいる。所有の概念も保持している。

自分に対して出来事が起こっているととらえたりもする。

そして、自分という範囲の大小によって行動の範囲も決まってくる。例えば、家族までが自分、地域までが自分、ある文化までが自分、国籍までが自分、等。

そしてそれ以外を自分とは何の関係のないものだととらえる。

これにより、「差別」という発想が役立てる土壌になった。

ちなみに、悟りとは差別をすべて取り除いた先に発見する意識のことで、もともとは差別も悟りも存在していないという理解のこと。

それはワンネスともいえるけど、最近はノンデュアリティーともいう。つまり、ワンネスの意識にも、ノンデュアリティーの在り方にも自我というものがほぼ存在してい無いので個を分けてとらえるという発想をあまりしないと思う。

デュアリティーの在り方と違って何を基準に個を個としてとらえるかの基準を持つことが難しいというか、基準自体持たないから。

なので、差別的な意識を取り外すだけで悟り状態になるのだけれど、その悟りという意識は実はとても広いというか、逆に差別したり区別したりという意識の狭さを維持する仕組みの方が稀だという気がぼくにはする。


個を個と識別できる能力がデュアリティーの意識には組み込まれています。組み込み式です。


ノンデュアリティーという在り方は、自分がいないのではなくて「デュアリティーの意識ではそう思い込んでいた自分はこういう人だよね。という勘違いがたどっていくと結局それって実在しえないよね」ということになっているということ。

自分を自分たら占めている現代社会という社会構造自体が今の世代での範囲のことでしかないのと、また100年もしたら別のテクノロジーによって社会も様変わりしていることの当り前さにより、今定義している「自分とはこう」というイメージが単にイメージだけ、思い込みなだけであったということ。



ノンデュアリティーがわかってくるのに理解に躓くポイントは、説明者が説明を放棄しているところにもあるとぼくは思います。

説明できない、仕方がわからない、何も浮かんでこない、だから質問が来た時にいつも同じことを繰り返し言ってそのニュアンスや雰囲気をピンポイントで修正していく作業、という印象を受けます。


全員が全員ノンデュアルとはこういうものという説明ができないのが当たり前といえば当たり前なのですが、焦りがあるとまともな説明が聞けないことによる焦燥を感じますが、それも個々の個性だと思います。

今から説明しようとしていることは、ノンデュアリティーといったものがどんなものなのか、効果などなどです。

対比や比喩を使ってわかりやすく、受け入れやすく説明できるようにやってみます。


ノンデュアリティーとは、全部が自分ではないのだと気が付くところから始まっていきます。今言う自分とは、デュアリティー目線で培ってきた自分とはこういった人であるという端的な思い込みのことを指します。

デュアリティーの世界観では自己のアイデンティティを構築することが大切で、そのアイデンティティーによって、見える世界が違ってくるからです。経験に多様性が生まれた仕組みのことなのです。

ノンデュアリティーとデュアリティーの違いはそんな感じです。

次に、ワンネスとノンデュアリティーの違いについてですが、ほぼ違います(笑)


ワンネスの特徴はといえば、全部が自分なので、他を認めないということなのですが、他を認めないでできる経験の幅は無限の宇宙からすればそれほどの発展は望まれることがなくなり、何か新しい一手をという頃になって出てきたのが真逆の体制であるノンデュアリティーという発想でした。


しかしノンデュアリティーはその文化ではワンネスの反対のことなので、ノンデュアリティーとは呼ばれずに、別の名前(概念)で呼ばれました。


今地球規模で行われた、ノンデュアリティルネッサンスという機構は、デュアリティー目線で受け継がれてきたアイデンティティをそのままに受け持ちながら、それ以外のものとの融合を果たそうという趣旨のもと執り行われましたよ。

ノンデュアリティーとは何か、その答えは各人バラバラかと思いますが、(それを一つにまとめることは難しい)しいて言えるとすれば、自由の代名詞となるのではなかろうか。

デュアリティー目線の世界情勢の中えられた次なる目安として光り輝くのはいつの時もそういった可能性/役割を持っていると思います。

ノンデュアリティーとはこういったものという定義は難しいので各人が思い描くそれを発見していきなさい。アーメン



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上の文章はあるところからチャネリングに置き換わっていき、ぼくの意図とは違った方向に話が向かいます。ノンデュアリティーの定義が難しいみたいです。

ぼくの中ではノンデュアリティーのイメージが対比によって固まりつつある兆しがあるので、なにかしらまとめてシェアしておこうと思ったのですけど、言葉にするのはまだ早かったのかもしれませんね。

この文章を書いておこうと思ったのはこちらの動画でシェアされている内容にインスピレーションを受けたからです。





ノンデュアリティーの意識では自分というものそのものがなくなったという感じで、



・ワンネスが全部自分。で、
・デュアリティーが自分それ以外。で、
・ノンデュアリティーが全部がそれ以外。となっている感じが面白いと感じました。


そう、シェアしたかったのは上の3行でした。

段階的に変化している感じが面白ポイントです。



※「ワンネスでいうところの自分」とは、個性のことではなくて、自分が何なのかはとくには定義していないけれども一人称を自分といっているだけのことです。しかし、一人称を積極的には使用していません。分離の意識ではないから。

※それと対比して、「デュアリティーでいうところの自分」は、「自己」という自分が所有していると思っている個性というアイデンティティーのことです。ここからここの範囲のアイデンティティーのことを自分として認めた(定義付けした)、という感じです。

※「ノンデュアリティーでいうところの自分」とは個性のことでもなければ、ワンネスでいうところの定義していない自分のことでもなく、自分という定義できるものが何もない、ということです。

※「デュアリティーの自分以外」というのは、アイデンティティーの範囲外のすべてのことです。

※「ノンデュアリティの全部がそれ以外」というのは、アイデンティティーのことを指していないし、自分のこともさしていない。
自分とは何の関係もなかったということを指しています。この自分とは、「気づき」とか、「無」とか呼び方はいろいろあると思います。ようは真我という単純に気が付いているだけのニコニコした存在の在り方です。




話は別の展開になるけど、今思い出したのは、、、


ぼくはMMOというオンラインゲームを長い間プレイさていただいたのですが、ゲームの構造自体が(個々のタイトルがという意味ではなくてゲーム構造全般がという意味)ノンデュアリティー的だなあとずっと感じています。

1) 新規アカウントを製作して、
2) ログインして、 
3) キャラメイクをして、 
4) ゲームスタート。

たとえ話をすると、
魂があるヴァーチャルなゲームの世界に入りたいと望んで、
そのままでは行けないので、手続きをする必要がある。

なぜかというと、常時開催のオンラインゲームだから、スタート地点は全員違ったところからになるという仕組みだから。スタートは赤ちゃんから。

ログインの仕組みは、

アカウントを製作して(登録手続きをして)、
あらかじめ決めておく絶対参加のエベントをカレンダーアプリに登録してアラート設定をしておき、
いざ地球(ゲーム)(体験型アトラクション)に着地、
赤ちゃんからのスタートという設定で、その人生において経験したいノルマをこなします。

全部の設定がアプリ内の条項に抵触しない範囲であれば後からでも自由に変更可なので基本すべて自由。
すべてが自由であるからこそしたい経験を厳選しつつ、つまりそれは、今している経験がその時その場において最もその魂にとっては重要な要綱であるという感じ。

時間の枠の外から見ているだけの世界では、次に何が起こるのかもあらかじめわかっていて設定している。あらかじめ知っているからこそ、その起こってくることに対してどういった対応を取り、どういった気持ちを感じていくのかを経験してみたいと思っている。

それはいうなれば、映画やドラマの予告編を見てその映画を見たいのかどうか、経験したいのかどうかを決めてから演じるようなもの。もっと言うと、脚本を読んでからその劇の俳優に立候補したいかどうかを選ぶかのよう。

すでに知っているわけだ、だけど細部は知らない。大枠だけ見て決めて、細部は楽しみの経験として残してあります。それがたま、ちゃますぃ~の在り方。


デュアリティーは経験できる幅が狭くてもろいけれど、そこでしかプレイできないことも盛りだくさんだからやめられないよね(魂談)





赤ちゃんとして生まれるためには、人生の大枠が既に決められていて、それを眺めてログインするのかどうか、したいところを決めます。

ある社会という構造物の中で、ログインする参加者が手あたり次第に好き勝手に無計画で行動/運動を起こされでもしたら、システムは立ちいかなくなることでしょう。

システムが何のためにあるのかを感じていくとすれば、そういうこと(計画性のなさ)は混とんを生むだけだとすぐ気づくでしょう。

それでは計画的にしたい/生きたい人生ストーリーを歩むのは困難な道筋となりえます。なぜ計画に沿った行為があるかといえば、あなたがた研修生が自身の能力に目覚め、したいこと、学びたいこと、成し遂げたいこと、に気付き、はぐくみ、一緒に成長する中で協調しあい、愛をたくさんの中から学び掴んでいけることに愛と至福を見たからに他ならないでしょう。



その人生の大枠の中で、可能性としてある様々な選択肢の中から選んで自己の経験として体験します。

パラレルリアリティーとはそういうことになります。

以前テーマになった「日本が存在しない地球」というのは地球のパラレルリアリティーのことであなたとは直接結びつきません。あなたはあなたにある選択肢が並列してあるということになります。

あなたに地球のパラレルにある選択肢があるわけではなくて、
あなたにはあなたの選択肢という幅の選択権があるということです。
あなたの範囲はあなたの選択いかんで選べるという感じ