2019年10月26日土曜日

新しいやり方はこれ!『安心しきって自分はだれなのか問う』


ほんとのところ自分はだれなのか???

今、安心しきっている
ここでこの時くつろいでいる
求めが止んでいる

自分とはだれなのか???

神が作った世界に安心しきっている自分は結局一体だれなのか???

安心できくつろいでいるこの存在はだれなのか??

幻想の体感にフォーカスできると、その感覚をいやがおうなく扱える(それに良し悪しはない)。なので、幻想にフォーカスしない。事実にフォーカスを切り替えた。

赤ちゃんは安心しているが、おなかが減ると泣く。しかし、安心しきっていると。。。

おなかが減っている時にも安心しきっている。おなかが満たされているときにも安心しきっている。おなかが普通の時にも安心しきっている。となれば、おなかが減ることも満たされることも結局必要なくなる。全部同じなら必要ない。変化しないならその体感じたい薄まってなくなる。

ここで、自分は本当はだれなのか???と問う。

神の子。おなかがすいて食べなきゃならないという条件付けが無い存在である。

おなかが減る、何か食べたいという求めが止むということへの強烈な喜び!

おなかが減ることも、満たされることも今後一切ないという安心感。安堵感。脱力。くつろぎ。

今に完全に満たされ切っている、ことから、あらゆる求めが湧くことがない、と理解している。

安堵にとどまる。

この世界に安心しきっている。

この世界にちゃんとくつろいでいる。

だから求めがない。


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今現に何かを求めているのに、求めを無くそうとするのは間違えている証拠。ではどうするのか??

現実にフォーカスしていると求めが出るのは当たり前なので、現実にフォーカスするのをまずやめ、「事実」にフォーカスを切り替える。

事実は「ほんとのところ自分はだれなのか??」という質問をし、神が作った世界に安心しきっている、くつろぎ切っている、楽しんでいる存在であるというポイントに焦点をずらす。

実際に、体感を「求めているモード」から「安心しきっているモード」に切り替える。「くつろいでいるモード」に切り替える。実際に。

神が作ったこの世界に完全にくつろぎ切っている存在を神の子と呼んでいる。つまり赤ちゃんのような感じ。

この世界に安心しきっている存在は、『赤ちゃん』。

しかし赤ちゃんでもおなかがすくと呼んで(泣く)知らせる。それは現実を生きていくために不可欠な要素であるのでそうしている。

しかし、現実を十分全うし終えたのであれば、もう十全なので今度は別の在り方に移行できます。

それが、この安全な世界にくつろいで、何が起こっても赤ちゃんがそうするかのような自然な安堵、安心感で暮らせるという感じ。

神が作り給うた完全な世界の中に、子に牙をむく要素があることはない。存在していない。

それを認識できると、安堵、安心しか現れない。

くつろげることしかあるはずはない。

これが成就である。天国なる。

『本当は自分とはいったい誰なのか??』

実在するのは、無であり、空である。”在る”。純粋な気づき。

だけれども、現象(ホログラム)としての自分は有である。神の子と呼んで間違いないんじゃないかなと今のところ思う。神の分身。

観念の無い存在。

※ ”それ”は在る。のNo.2100を参照

コツは、つまらない現象に焦点を当ててしまい、くつろぎからずれると、安心しきっているところからずれると、それを知らせるために「求め」がONになり、求めのレパートリー(手札)の中の「欠乏」感などを起動させる。

つまり、構造が明確なので、それをやめる。

この世界に安心しきって暮らすことだけに意識を合わせ、焦点をチェックし、今くつろいでいるかどうかだけ、安心しているかだけに意識を使う。それだけに専念する。今にくつろぐことに専心する。

歪曲せず、現に安心できるとらえ方のみをし、そうとらえられないような現象は単に無視をするか、気にしないか、そもそも掴まないか、掴んだら離すか、して自分が扱いやすくする。

様々な観念はホログラムである現象の世界には必要があれば生ずるけど、実在しているわけではないので実在しない。

実在しないようなものに焦点を合わせ続ければ、シグナル(サイン)としてなんらかのシグナルが来て当然の仕組みである。

そのシグナルが何なのかに気付き、意味を読みとき、利用できるようにするのが現象世界の役割でもある。

さて、おなかがすく。という現象は実際に”在る”のか??

おなかが満たされた、と理解されうる現象はホログラムなサインなのか否か。

ここで、自分とは本当はどういった存在であるのか??という自然な問いが発せられました。

実在する気づきは、あらゆる現象に気付いているだけの方。

現象が自分なのではない。

なので現象に働きかけることもしない。

実在の私は現象の私ではなく、現象の私から実在する私の方に焦点を移動すればいいだけだった。

現象と無縁な私(実在する自分)には、何か食べなきゃいけないという観念がそもそも不在であった。という感じ。

その事実に求めが停止、長年の悩みの根本であった求めが消えることに強烈な喜びを感じるという流れ。

頭で考えずに、直線で考えずに、頭空にしてやんないとうまくいかない。

世間一般でいう賢いと無理だからやっても挫折しかないと感じる。

ただただ単純に「この世界に安心しきる」「くつろぎ続ける」という感じ。(神が作った世界に安心しきれるのはど基本中のど基本(前提))

それがブレイクスルーをするきっかけにつながる。


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現象が激しいほど、ブレイクまじかのサイン。

つまり、その時こそ、頭をからにして「実在するのは何だろう??」「自分とは本当のところだれなんだろう??」と言う問いを発した方がいい。なぜかといえば、ブレイクするから。

現象の激しさから→実在に意識を向けると、実在していない現象にそう意味を持たせる意味がないという事実に突き当たる。

そうして、激しさのある現象から距離を取れたら「この世界に完全に安心しきっているモード」に切り替える。

そのモードになれたら「自分は本当のところいったい誰なのか??」と再度質問をする。

観念があるという現象から、観念というものが実在しない実相に意識を切り替えると求めが止んでしまっている。