2019年10月21日月曜日

進展報告 ノンデュアリティがわかってきた!と無限性

進展報告

今読んでいる本は、"Kindle Unlimited"の

・泉の真実 ~女神とうさぎの対話篇~ 天音優希
・"それ"は在る―ある御方と探求者の対話 ヘルメス・J・シャンブ
・神性を生きる―アダマス・セント・ジャーメインからのメッセージ ジェフリー・ホップ (著), リンダ・ホップ (著), 林 眞弓 (翻訳)

です^^

キンドルアンリミテッドはノンデュアリティ系の本が無料でたくさんあって充実しました^^
知りたかったことが一挙に知れた感じで、さらなる謎が出てくる感じ。
今一番知りたいことは、無限を統合する方法です^^

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◇ ここからは今わかっていることをまとめておこう
(すべて個人の見解なのと、まだよくわかっていないところがあるのと、概念を理解することを主にしている。概念を固めるのがみそ)

〇 ノンデュアリティの進展
・ノンデュアリティの中身は、ネオアドバイタとアドバイタに分類できるっぽい
・ネオアドバイタは、極論というか単視点なので、デュアリティを否定しているかのように聞こえる
・ネオアドバイタのいいところは、ホログラムを一掃する視点なので話が速くて正確な気がしている
・ネオアドバイタの視点はデュアリティ目線を排除するけど、説明の段階で言葉や概念を使う時点で、"それ"そのものではない
・つまり、ネオアドバイタも完全に沈黙しないのであれば、ネオアドバイタ寄りのアドバイタという感じかなと思った。
・つまり、ノンデュアリティはアドバイタの方を学べばわかりやすいと感じた。というか、「ノンデュアリティ=アドバイタ=沈黙しないタイプのネオアドバイタ」だと思う。
・完全に沈黙するほうのネオアドバイタは、ヘルメス・J・シャンブさんの2冊目の本に出てくるような感じの存在(ちらっと立ち読みしただけなので、詳細は不明)
・デュアリティをメインに生きるぼくたちは、ワンネスを理解し活用でき、デュアリティを理解し活用でき、これからノンデュアリティを理解し活用できるかのようになるタームにいるのではなかろうか(直線的な思考では)

〇 目覚めと悟りと自覚とその後
・目覚めというのはどうやら、自分は輪廻転生する肉体以上の存在であるということに気が付き始めること(うすうす信じ始めること)をいっているっぽい。
・ぼくはデフォルトでそういうことに違和感がないので、目覚めという何か特別なものがあるようにずっと感じていて調べていたんだけど、この程度のことであったという逆ドッキリ
・『目覚』めに焦点"・"をポチっとつけると漢字の『自覚』になる
・自覚とは自分がこの現実をクリエイトしている主体であるということに気が付くこと(うすうす信じ始めること)
・自覚とは何を指して言っているのかが最近ようやく統合できてうれしく思う。
・自覚=悟り
・悟りとは、(特定の決まりきった意味の付与されていない)この世界に自分で意味づけをしているということに気が付き(そう悟り)、結果としてコントロールを放棄できること(コントロール=余分な意味づけ)
・自覚とは悟った後で、じゅあどういう風な世界としていきたいのかを自覚をして(自由に創造的になり)どんどん決めていくというスタンスのこと
・自覚のそのあとを今ぼくは体験を通して学んでいるけど、目覚めも悟りも自覚もそれぞれ徐々に深まっていくもの。料理の基本であるおにぎりを何度も作って深みが出るかのよう、おわりはなく

〇 ここまでをまとめると、
・目覚めによって自分は今まで自分が思ってきたような世界の住人ではないということに感づき始めることまでをいい、
・次に、物事が発端としてあらわれてくるかのように感じていた恨みや苦しみなどが、実は単に自分がそうとらえていただけだったという領域を経る、
・次に、デフォルトで悪い意味付けが行われている事象はないという事実や無条件の愛等から、世界にはあらかじめ決められた決まりきった説明や意味づけがないということがわかる(ここから悟りの入り口)
・オセロが反転するかのように、自分の中の勘違いベースの在り方にだんだんと気が付く
・悟りという何か特別なものがあるのではなくて、今まで勘違いベースで生きてきたという事実を悟った、という感じ
・悟っていない人はいないという意味は、間違っている人がいないという意味
・悟ることを選ばない人生を選んだ存在もいて当たり前という感じ
・ここで自由意志の登場
・自由意志とは何か(下の方にまとめる)
・悟りとは何か。悟るのはみんな悟っているのだから何も特別なことではないとわかっていること。自由意志によって役割を演じているともいえる(デュアリティ目線では)
・何を悟るのか?→2種類ある?
1)悟りは特別なことではないという悟り(悟っているのが当たり前という理解=輪廻転生や自由意志の守備範囲)と、
2)常識という意味づけや解釈、ものさし、色眼鏡、により、色付けのされていない元のピュアな純粋な現実にフォーカスしていなかったという理解
・昔の人は現代よりも単語をたくさん切り分けてツールとしていなかったから、悟りという一つの単語にかなり幅広く意味を詰め込んでいるので、あの人の言う悟りと別の人の言う悟りで指しているものに雲泥の違いがあって不理解につながる。
・今でいうところのワンネスとノンデュアリティをひとまとめに言うから意味が通じにくくなると思う
・ノンデュアリティとは、ワンネスという概念の中にデュアリティという概念が含まれていて、デュアリティという概念と比較する形でノンデュアリティが出てきている気がする
・ワンネスのゴールを一言で言うならば「私はあなた、あなたは私」すべてが私、エブリシングオールザットワン
・デュアリティのゴールは「私とあなたは別物(調和した極と極)」真逆のものが調和して成立する不思議な在り方。常に変化する、動いている
・ノンデュアリティのゴールは、「2極と原点の合流」。ワンネスという一つの無限の中で、デュアリティの方極と他極が原点である(ゼロポイント、空、)無の集約点で整合すること
・言い換えれば、二元論の統合を集約点(バランスポイント)で行うようにするのがノンデュアリティの役割
・(トリニティ(三元性)というものは存在するのか??長年の疑問。kan.さんだけが三元性についてちらっと述べているのを見たことがある)
・またはキリスト意識というものが何を指しているのかを検索中。。。


=== 別の話題の進展状況 ===

〇 "決める"ということについて
・https://www.youtube.com/watch?v=mhODreoJ1ms  覚醒する人しない人の意識とは。秋分に向けて宇宙の動きを話します。

〇 自由意志とは(自由意思の法則)
・単純に自分の好きなようにすればいいよということ
・単純に自分のタイミングで進めばいいよということ
・単純にいやなことをいやと言えばいいよということ
・輪廻転生をする中でゴールとなる最後の1転生だけが重要なのではなくて、たくさんのそれぞれの転生が全体的に通しで見るとしたい転生をしているという観点では、
例えばスピリチュアルな人生と無縁な生を選択する場合もあるかもしれず、そういう時に今現に自分がスピリチュアルな道を進んでいると障害と映るような人があらわれた場合、
その方を劣った存在であると認知する場合はその方は自由意志により、必要があって今そのように存在しているという認識の仕方もある。そういう意味で自由意志がある、とする場合もある。
・自由意志とは、自分に自由がある、自主性がある、自発性がある、という事実を認めた場合に、目の前にいる相手にもまったく同じものがあるという認知の仕方も自由意志があるという場合もある。
・自由意志がある、無いとは??
・自由意志がある、自由意志がないというのは、今のぼくの理解では、「自由意志はあるところまであり、その後は(自発的に放棄するから)自由意志はなくなる」という感じ。
・もともと自由意志という決まりきった厳格絶対な掟や法則、意思はないというのがベースにあって、それではうまくいかないような場合、
必要から「自由意志を認めた」ところから自由意志があるというカウントで接し、あるところで一人前になったところで、
その特例措置を自ら手放して、大人の仲間入りをするかのような意味合いで、ぼくは「自由意志があるけど、あるところからなくなる」というふうに理解している
・自由意志を認めない場合どうなるのかと言えば、厳格な時間、規則通りにことが進まなければならず、タイミングは常に誰かが決めたものに沿わなければならず、
価値観も固定なものを押し付けられなければならず、むしろそう要求するかのようになると感じた。自発性等なく、全て決めてもらわなければ文句を言うかのような大衆をイメージする
自由意志を認めることで、自分に起こるすべてに自分が責任を持てるようにしている。ここでいう責任とは主体性のこと。
と同時に非干渉の法則というものを使用して、自由意志を見守ることを徹底していると感じる。
非干渉の法則とは、干渉すると自由意志の侵害になり、主体性の芽生えの芽を摘んでしまうことにより、その後主体性が培われるまでずっと面倒を見なければならなくなる(組み込まれることになる)
つまり、主体性が定まっていない存在に対して自由意志を認め、非干渉を厳守するというのは理にかなうことだし、お互いによりピュアな正しいクリーンな状態を保つことを担保できる仕組みであると思った。
成長の過程にいる存在と、それを見る(適宜アシストする)存在という立場の違いがある
・自由意志を放棄するとは?
・サレンダーをした場合には、その後自由意志というたぐいのものはなくなって、代わりに神の意志とか全体の意志とか呼び方は何であれ、個我から来ない意思を採用するようになると今のところ感じている。それのことかも
・意思なき意志?とか、純粋な意図とかかな?
・一つである無限の全体がつまり自分なのだから、大いなる自己の起こりにゆだねた感じかもしれない

〇 無限とは
無限についてまとめとこうと思ったけど、1兆人の存在がいたとして1兆通りの論を持ち出したとしても、それはまだ無限の可能性の一部でしかないと思うので時間の無駄なのでまとめず。

・一つ言えることは、直線的な発想をやめること
・直線的な発想とは、100万円の次は1000万円でその次は1億円でという順番のある考え方
・瞬間的な発想とは、欲しいものが閃いてそれが10円でも10万円で本当に必要であるのであれば実際に買えたりもらえたりするという発想
・お財布の中身だけではなくて別のルートから手に入るとか、しかし、ベクトル自体が所有の概念ではある。
・無限性の根本とは、未知であることだから次の瞬間は未知なので、直線的な期待が当てはまるかもしれないし当てはまらないかもしれない。
・次の瞬間が全くの未知であるなら、無限性を生きているという感じ
・0円を常に持っているというデフォルトのこと(0円=無限円)
・0個のミカンを常に持っているという感覚(0個=無限個)
・在るが在るというのが無限。無には存在はいない。ヘルメス・J・シャンブさんの"それは在る"を参照