2018年11月11日日曜日

レイ アナスタシア第6巻『一族の書』を購入しましたよ^^


今回は文章が長いのと、読み手に伝わることを意識していない、自分の内面の整理を目的とした回になりましたよ^^これからもこういう回をやっていきたいかなと思っています^^個人的には有意義ですね^^

なので、読まないで構いません^^

本を読んで感じたことや疑問に感じたことを書きました^^


それではスタートぅぅぉぉぉ!!!^^

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アナスタシア第6巻『一族の書』(amazonへのリンク)を購入して半分ぐらい読ませていただきました^^

5巻まですべて読んだのですけど、細かい描写を忘れていて話が途中からスタートした感じがして先に5巻を読んでからにした方がよかったのかなと今は思いますね^^


アナスタシアさんの本はぼくにとっては案外「もろ刃の刃」みたいなところがありますね^^

どういうことかなと言いますと、、、

アナスタシアさんのお話を読んでしまいますと、今やっていることがストップしてなおかつ方向修正が余儀なくされてしまうといつも感じるからですね^^

なぜ、方向転換や修正が必要だと感じてしまうのかと言いますと、アナスタシアさんのお話が真実にそくしていると感じるからですね^^

つまり、今ぼくがやっていることやこれからやろうとしていることの価値を自分自身で否定してしまうといいますか、疑問を抱き、より真実に即した方向のことをやっていきたいという思いが出てきてしまうからです^^

それはそれでいいのですけど、今まで時間をかけて考えてきたことがチャラパーになってしまうというところが毎回嫌だなあと、感じてしまうポイントです^^

しかし、真実からほど遠いことをやっても、後々どうせ方向転換を余儀なくされるのは自明の理なので、何かプロジェクトを始動させる前の原案段階で方向修正をした方がはるかにいいスピードでしたいことをできそうではあるというのも、また、考え直させるということをぼく自身に不可避なこととして捉えることにならざるを得なくしてしまっています。

要するに一言で言うと、「めんどくさいなあ」^^というかんじです^^



ぼくの中にいつもあった疑問に自分で答えを見つけてみる回


それはそれとしまして、、、今は別のことを書きたいかなと思います。

テーマは、「ぼくの中にいつもあった疑問に自分で答えを見つけてみる回」です^^


アナスタシアさんの本はぼくにとって、いつももろ刃の刃です。それは計画の修正をいつも何かしら余儀なくされているからですね^^そこまでは別にいいとしましょう^^効果がありがたいので^^


問題は、アナスタシアさんの何がそんなに理解できないのか(気に食わないのか?^^)です^^(オブラートに包んでいます^^)


一晩考えてみたのですけど、ぼくがここまででたどり着いた答えの一つを暴露しますと、ぼくの個人的な価値観である、


  • 「自分よりも格上の存在を認めたくない」みたいなところと、
  • 「自分よりも格上の存在のイメージは年老いた賢者か、まだ幼い子供かのどちらかしか認めない」

  • というのがリンクしてあるのではないのかなと、解析しました^^

    アナスタシアさんのお話を読めば、アナスタシアさんが本当にすごい方であるというのはすぐに分かるというのに、どうしても自分の既存の価値観を前面に出してそれと比較してしまうというのがこの問題の要であるのかなという印象を自分では持っています。さて、これとどう折り合いをつけていければいいのでしょうか。というのが今回のテーマです^^

    ぼく自身はアナスタシアさんの存在を認めたいと思っているのと、認めないとアナスタシアさんの世界観で先に進めませんので、早い所やっつけてしまいたいと感じていますね^^アナスタシアさんの言う世界も楽しそうだからですね^^


    それで、引きずっている、または常に持ち歩いている(携帯している)価値観をもうすこし引き出してみようかなと思います。



    アナスタシアさんの話で分かるところとわからないところがある


    これは当たり前ですけど、わかるところとわからないところがありますね^^それでわかるところは全面的に同意や賛成ができているかなと思っています^^細かいところまでは覚えていないのですけど^^


    それで問題の核心は、「わからないところ」にあるのかなと思いますね^^

    なおかつ、「わからないところ」をアナスタシアさんの詳細な説明や誘導があればまだわかったのかもしれないのですけど、わからないところを自分の既存の価値観や解釈で推論したりしてしまうところから、何か変なことになっているのではなかろうかな??と予測しています。

    そうでなければ、どうなんでしょうか??^^


    そのわからないところが結局は同じ経験や似たような経験がないことからくる理解のしにくさ、できなさなんじゃなかろうかな??という気持ちもありますね


    それから、アナスタシアさんのお話を読んでいる時の違和感を常に感じとる出来事があって、それは大和田菜穂さんのお話を聞いたときですね^^

    最近は大和田菜穂さんのお話を聞くチャンスはないのですけど、数年前は大和田菜穂さんが一体何を話されているのかよくよく聞いて理解しようとしていた時期がありますね^^

    結局は今も分からないままでいるのですけど、大体の「枠」はつかめたのではなかろうかな??と個人的には満足してそこで終わってしまいました^^



    大和田菜穂さんのよき理解者である「阿部敏郎」さんのお話がなければぼくにはとうてい理解不能なところでしたけど、上動画の 2:25 から 6:37 までをみれば、阿部さんの立場から見える大和田菜穂さんという存在の理解の仕方をシェアしてくれているのかなと感じました^^

    つまりは、この例と同じでアナスタシアさんのお話も、だれかいったん理解したりかみ砕いたりしてぼくにシェアしてくれるようなパイプ役の方がいると、もう少しましになるのかもしれないのかなと他力本願ですけど、感じますね^^

    しかし、こういうことは特に珍しいことではなくて自分と離れて活躍している方はだいたいそうですね^^

    次にあげる「ラー」という存在もまた同様ですね^^



    自己への奉仕、他の自己への奉仕。


    ラー文書第2巻(amazonへのリンク)も少し前に購入させていただきましたよ^^こちらも半分ぐらい読んで止めてありますね^^


    ラーという存在は非物質の次元の集合意識なので、ぼくや地球人とは大きく意識の広がりなどが違うと思っていますので、そういった存在が存在しているという理解はしやすかったですね^^ぼくの場合はです^^

    あまりに違いが大きかったり、比較できるものさしがそもそもないのであれば、逆に受け入れやすいのかなと思いますね^^

    また、お話の内容がとても理解できるとか、部分的に理解できるとか、理解できなくても責められるような感覚がないというのもいいところですね^^

    地球人のような考え方や概念を使用しませんので、理解するのに時間が必要ではありますけど、ぼくはラーが好きですね^^

    ラーの特徴は、「他の自己への奉仕」に貫徹しているということですね^^ここが貫徹されていますので、わかりやすいとも、逆に分かりにくいともいえる部分がありますけど、全体的にわかりやすいです^^特徴的な独特な言い回しや価値観に慣れる必要がありますね^^


    先ほどふと思ったことで、否定したかったことは、アナスタシアさんとラーの存在の仕方を比較した時に、アナスタシアさんは「ポジティブな自己への奉仕」になるのかな??とふと気づかされたということでした。

    ぼく自身の動機は他の自己への奉仕の意欲が優勢なのかもしれないと、個人的には感じていますけど、自己への奉仕のベクトルもぼくの中にはちゃんとありますね^^


    ポジティブな自己への奉仕が何なのかや、それがいいのか悪いのかなどの疑問をとりあえず脇においておきまして、それよりも知りたいことと言いますか、ウラジーミルさんのことについてですね^^

    ラーの存在様式は、集合意識であるというところと非物質であるというところで、物質を基礎とした次元よりも高次元であると思っています。

    その点で、アナスタシアさんと著者のウラジーミルさんの存在の様式は、個我で物質次元であると思っています。しかし、アナスタシアさんは意識で移動したりも本の中で普通に描写されていますので、物質と非物質とを意識的に自覚をもって行き来している現状にあるのかなと勝手に思いました^^また、アナスタシアさんもぼくたちも本当に個我なのかは疑問の余地があるというのも、ありますけどここではとりあえずおいておこうかなと思います^^


    ウラジーミルさんはぼくたちと価値観が同じ部分が多くて悩みを理解しやすいですね^^親近感がありますね^^

    しかし、本では自分のことをあまり認識できていなかったり、息子が言い当てていたりされていますけど何と言いますか、要するに選んでそうしているかのような印象を受けましたよ^^

    はっきり言いますと、ウラジーミルさんは愚鈍なのではなくてむしろ逆で、よく理解しているからこそ、逆に全く理解していないという状況からはじめて、全く理解していないところから徐々に理解していったりしながら、そのプロセスを本で紹介しつつ、経験を暴露してシェアして、本の中で読者の大勢の方が追体験としてイメージしやすくする役割を演じているのかもしれないと、ぼくには思えますね^^そうすれば、物語にできる気がするからですね^^


    宇宙は無限であり、存在の本質も無限であるという前提をとらえれば、何が正しくて何が間違いであるという価値観が機能しないと感じますので、どんな存在にもそれぞれのその時の存在理由というのがあると、勝手ながら思う所存であります^^

    ぼくははじめ、アナスタシアさんがウラジーミルさんを招致(しょうち)して自分についての本を書いてもらう、その副産物としてウラジーミルさんの魂が上昇する、みたいなイメージを勝手に抱いていましたけど、最近はまったく違って、ウラジーミルさんのたっての希望でアナスタシアさんにお願いをして、それをアナスタシアさんが受け入れてこの運びとなったのではなかろうかな??と勝手にとらえなおしています^^

    ウラジーミルさんの行動力がすごいというのがその理由ですね。これもただのアイデアにすぎませんけどね^^

    なお、アナスタシアさんがポジティブな自己への奉仕のみに向いているのであれば、自分を犠牲にして周りの植物一帯が真っ白になるようなことをしないかなと思いますね。つまり、言い換えれば自己への奉仕ではないということかなと思います。

    自己への奉仕の典型的な例は「独裁的」にならざるを得ないという感じなのかなと個人的には解釈をしていまして、それ以上の解釈を持っていないところからも、ぼくに知識や経験がないということがわかりました^^

    なので、アナスタシアさんの生きざまがある種独裁的というのか独創的というのか、他の追随を許さない感じの印象を受けてしまっているという、萎縮を誘発する、または、否定された感じを受けるようなところからも、他の自己への奉仕の概念の欠如、行き届いて無さがあるのかもしれない、そこに違和感を感じ取ってしまったのかもしれない。とも感じました。

    しかし、アナスタシアさんは、他の自己への奉仕への意欲を持っていると思い込んでいるぼくに比べて、小さな植物さえ大事にし足り、小動物とコミュニケーションをとったりできます。他の自己が人以外をちゃんとさすのであれば、そこで行われていることは明白です。

    萎縮や否定があるのは、文化の違いがあるからかなとも思います。アナスタシアさん級の方が数百人もいればそこにある文明では喜びしかないのでしょう。萎縮や非難ではなくて。


    それはそれとしまして、話を戻しますと、、、、


    アナスタシアさんの「~しなければならない」という断定がぼくの既存の価値観に反してしまい、受け入れずらくなっているのだろうと観察してみましたよ^^

    ラーの姿勢では「他の自己への奉仕」で貫徹されている印象がありますのである意味わかりやすくて、自由意思をこそ最重要視している背景がありますので、アナスタシアさんのような断定的な、または自由意思を度外視するような提案などは一切なかったのかな??とも感じました^^

    こういう違いがありますので、ラーも真実に向かう方向に近づけてくれますけど、受け入れやすくて、アナスタシアさんは直接的すげて早急に何かしなければならない気持ちになってしまうというのが両者を比較した時に、ぼくが常に感じている嘘のない気持ちですね^^


    アナスタシアさんはその点だけで言いますと、ウラジーミルさんに対してや、その本を読む方に意図的に行動に向かわさせるような強い言い回しであるとか、事実を突きつける場面ばかりな気がしなくもないと感じていますね^^

    それは、自由意思の侵害にあたってしまうのかどうかよく吟味してみないとあれですけど、何か言いようのない違和感はずっとあります。

    ぼくはその違和感を「アナスタシアさんはすごい人なのだから何かぼくにはまだ知らない考えがあるに違いない」ととらえていますけど、それさえもアナスタシアさんの本を読むのをためらう理由になっているのかなと感じていますね。今思えば。

    冒頭にも書きましたけど、アナスタシアさんの本を読むのはぼくにとって「諸刃の剣」でそれはいつもアナスタシアさん経由で真実にぶつかってしまいますので、それについて考えざるを得ない状況になってしまい、今やっているまたはこれからやろうとすることすべてに、真実に少しでも即すような修正が始まるということで、アナスタシアさんの本を気軽に読む習慣や動機がなくなっていってしまうという気持ちがあるかなと思いました。

    ちょっともったいないことではありますよね^^

    アナスタシアさんの本は他の本には類のない具体的な事実が書かれていると感じますので、読み手の中で何か動きたい方にはすごくいいのだろうと思いますね^^

    しかしそれもいわゆる「動かされた」という感じにならない方がいいのではなかろうかなと、ぼくの既存の価値観では感じてしまいます。



    二元性と非二元性


    ぼくは結局今のところ「非二元(ノンデュアリティ)」がどういったものなのかを正確に把握できていませんね^^

    個人的にはぼくの流れでは2016年の2月くらいからノンデュアリティの学びが始まったのかなと思いますけど、今2018年の11月ですけど、ここ数か月ぐらいでようやく「虚無」から半歩片足が抜け出たのかな程度の進展具合ですね^^

    ノンデュアリティへの考察は無難なところではやめておいた方がいいのかもしれないと感じていますね^^普通はですね^^


    どうしても興味があればそういったカリキュラムが組まれるのかもわかりませんけど、虚無にわざわざならない方がいいのかなとも感じていますね^^おすすめは絶対にできません^^


    ぼくは数か月ぐらいの短い鬱も経験がありますけど、それはまだ期間が短くてましでしたね^^あまり覚えていませんけどね^^

    虚無の場合にはここからまた数年や10年もたてば忘れてそんなこともあったかな??と感じるのかもしれませんけど、虚無は何に対してもやる気が出ませんので、おすすめしません^^


    ノンデュアリティーの間違った解釈、(それが間違いであると認識するための解釈)は虚無という副産物でアラートしてくれているのかもしれないとも感じますね^^

    ノンデュアリティーを通りながらも虚無にならないですんなり行ける方も中にはいらっしゃるのかもしれませんけど、いわゆるティーチャーの助言が動画や何かでちゃんと自分の疑問に添えるように整っていた方がいいのかなと個人的には思っています^^

    ノンデュアリティーは今はブームがどうなったのか全く分かりませんけど、YouTubeに新しい動画がUPされていない気がしなくもないですね^^どうなってしまったのか気になっています^^

    いまならば、当時よりもましにノンデュアリティーについて包括的な理解が可能な気がしなくもないですね^^特にノンデュアリティーに何かを期待していないといいますか、勘違いが正された後だからかもしれないと思います^^

    なので、待ってます^^ノンデュアリティの次の展開を^^


    結論


    出せない結論を以前出した結論をもう一度ここに述べることで終わりとしておこうかなと感じています^^

    結論が出せない理由には、ぼくが何かしらよく理解していないということと、理解するための経験がないということ、があるのかもしれないと感じています。

    聞いたお話、事後のお話、本当かどうか雰囲気が伝わらないお話、カヤの外のお話、ぼくの今のリアリティと離れているお話、調べてもよくわからないかもしくは調べ方が思いつかないお話、要するに、制限されていて触れなくてもいい情報としてわざわざ解決できもしないのに目の前に突き付けたりしないようなお話、要するに、ぼくがまだ意識的に子供であるという事実からくる責任の範疇を超えたところの問題は理解不能であるというお話、等々の理由から結論が出せないです。

    よそで何が起こっているのか知らないし、アナスタシアさんが何と対峙しているのかも知りません。

    無知からくる結論の出せなさ、それが一つですね

    もう一つは、ラーのように、バシャールのように、非物質の存在に強くあこがれているという点がありますね^^

    とても強いあこがれがあります^^楽しみでさえありますね^^

    アナスタシアさんは、物質寄りの非物質次元で活躍をされているのかもしれないと考えていますけど、ぼくはそうではなくて、非物質次元に興味があります^^

    何か楽しそうな気がしていますね^^本当は、非物質次元がつまらないか何かで、物質次元に来ているといったお話がありますけど、ぼくはそれもそうかもしれないと思いつつも、やはり、何となく非物質次元の特に高次元にあこがれや面白さを感じてしまいますね^^そこがポイントかな


    結論としましては、「結論が出せない」というのが結論です^^

    面白さはどちらにもあると思いますので、そうなってしまいました^^

    疑問の根底にあるのは、アナスタシアさんのはっきりとした価値観で、はっきりとしている反面、だめだとするものもはっきりとしていてその中に、ぼくの大好きな物や人も含まれているということが挙げられてしまうのかなと思うところかもしれません。

    ぼくにとって大切なことや好きな物や楽しいと思うことが、アナスタシアさんの提示する最高の条件に沿うことが無くて、確かにアナスタシアさんの言葉で言うところの「本当の意味でのオカルト」であると思い知らされました。と言いますか、ちゃんと納得できましたね^^目からうろこと言いますか、確かにその通りだなと普通に感じます^^


    そうなってきますと、連続してオセロがひっくり返るように、ありとあらゆるものすべてが(アナスタシアさんの提示した最高レベルの条件)からすれば何の意味のない無為な物であるばかりではなくて、アナスタシアさんの言うところの完全な条件を満たすことにおいての障害でさえあるというはっきりとした認識を感じました^^

    ぼくが普段普通に暮らさせていただいているというただそれだけの事なのに、アナスタシアさんのイメージする条件と比較すると、どちらがより優位かどうかすぐに判別できます。そして、やはりといいますか、アナスタシアさんの提示する風景の方がよさそうなので、そちらに向かうことになります。


    最終的なゴールはそれでいいと思いますけど、ぼくがいつも根に持っているといいますか、気にしていることの一つに、、「無限」という観点があります。どういうことかと言いますと、


    結局宇宙は無限なんだから、たかだか数万年とか、数億年とか、何か変化にとんだ面白そうなことを展開してもいいんじゃないのかなあという個人的で無責任な勝手な意見があります。


    すでに知っている存在、または、アナスタシアさんのように、意識で過去や未来に行けたりアクセスしたいところにアクセスできる方がいらっしゃいますけど、そういう方々は何が起こるのか、起こりそうなのか、知見があるので判別したりアラートしたりしてくれているかのような気がしています。

    でも無限の宇宙で、誰もが幸せになりました。というシナリオは、結局のところ基本中の基本と言いますか、(何に振れるかわかりませんので、オブラートで言いますと)面白みに欠けたりしないのかな??とも思います。


    • ロックやパンクやヒップホップは、低級扱い。
    • マンガやアニメも低級扱い。
    • 映画やサブカルも低級扱い。
    • YouTubeもVtubeも低級扱い。
    • お笑いや演技も低級扱い。
    • 普段の働き方も低級扱い。
    • 普段の家庭の在り方も低級扱い。


    確かにそういう面も比較対象が高次元であればあるほど否めないかなとも感じていますし、事実かもしれないとも感じています。だけど、可能性としましては面白そうかなとも思います。そういう物がある世界もそう悪口を言うほどでもないのかなとも感じますがそう思わない存在も多いのかもしれないと思います。


    低次の物が現れないと、何が高次なのかも特定できないのではなかろうか??とも思えてしまいます。


    最近知ったぼくの大きな勘違いをここに書いてみたいかなともいます^^

    ちゃんとは説明できそうにありませんので、概要だけざっくりと言いますと、自分の思い描く理想は身近な人の理想ではなくて、頭から自分の理想だけを信じ込んでいて疑問が無い状況の時に、その通りに周りが変化してくれないと、常に疑問がある状況でしたよ。というお話ですね^^


    タイミングが来ている方がたにとっては、最終ゴールに最も近い形態の文化であるアナスタシアの言う方法がしっくりくると思います。

    ぼくが思い描く最終ゴールとは、ヘミシンクのモンローさんの本に出てきた裸で暮らしていて、手からトウモロコシを出して、鹿とかハチとかが自分たちの子供たちで、自由に雨を降らして、これから他の惑星に行くというあのくだりの存在達なのかなと思います。

    それか、バシャールやラーのように社会的な集合意識になるのかな??要するにイメージがそれ以外にないということですね^^




    結論が出せないというのが結論ですね^^

    非二元のように、「それがある」とか、「あるものだけがある」というにとどまるのかなとも思いました。

    よくわかっていませんので、わかっている方に聞いてくださいという感じです^^ぼくじゃなくて^^

    まだ意見が出しずらい。または、出した意見がアナスタシアさんと違っている。しかし、アナスタシアさんを尊敬している。そこがやはりどうしていったらいいのかよくわからない、というところにまた戻ってきてしまい、結論が出せないでいます。というお話でした^^



    それと、アナスタシア第7巻「生命のエネルギー」(Amazonへのリンク)も先ほど届きましたよ^^

    こちらも楽しみなので、読みたいかなと思います。